-
Notifications
You must be signed in to change notification settings - Fork 102
/
Copy pathtest_aozora.csv
We can make this file beautiful and searchable if this error is corrected: No commas found in this CSV file in line 0.
437 lines (437 loc) · 208 KB
/
test_aozora.csv
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
65
66
67
68
69
70
71
72
73
74
75
76
77
78
79
80
81
82
83
84
85
86
87
88
89
90
91
92
93
94
95
96
97
98
99
100
101
102
103
104
105
106
107
108
109
110
111
112
113
114
115
116
117
118
119
120
121
122
123
124
125
126
127
128
129
130
131
132
133
134
135
136
137
138
139
140
141
142
143
144
145
146
147
148
149
150
151
152
153
154
155
156
157
158
159
160
161
162
163
164
165
166
167
168
169
170
171
172
173
174
175
176
177
178
179
180
181
182
183
184
185
186
187
188
189
190
191
192
193
194
195
196
197
198
199
200
201
202
203
204
205
206
207
208
209
210
211
212
213
214
215
216
217
218
219
220
221
222
223
224
225
226
227
228
229
230
231
232
233
234
235
236
237
238
239
240
241
242
243
244
245
246
247
248
249
250
251
252
253
254
255
256
257
258
259
260
261
262
263
264
265
266
267
268
269
270
271
272
273
274
275
276
277
278
279
280
281
282
283
284
285
286
287
288
289
290
291
292
293
294
295
296
297
298
299
300
301
302
303
304
305
306
307
308
309
310
311
312
313
314
315
316
317
318
319
320
321
322
323
324
325
326
327
328
329
330
331
332
333
334
335
336
337
338
339
340
341
342
343
344
345
346
347
348
349
350
351
352
353
354
355
356
357
358
359
360
361
362
363
364
365
366
367
368
369
370
371
372
373
374
375
376
377
378
379
380
381
382
383
384
385
386
387
388
389
390
391
392
393
394
395
396
397
398
399
400
401
402
403
404
405
406
407
408
409
410
411
412
413
414
415
416
417
418
419
420
421
422
423
424
425
426
427
428
429
430
431
432
433
434
435
436
437
type text
souseki 先生 は 奥さん を 呼ん で 、 必要 の 金額 を 私 の 前 に 並べ させ て くれ た 。 それ を 奥 の 茶箪笥 ちゃ だ ん す か 何 か の 抽出 ひきだし から 出し て 来 た 奥さん は 、 白い 半紙 の 上 へ 鄭 寧 ていねい に 重ね て 、 そりゃ ご 心配 です ね と いっ た 。
souseki まだ ある と いう ほど の 理由 で も ない が 、 以前 はね 、 人 の 前 へ 出 たり 、 人 に 聞か れ たり し て 知ら ない と 恥 の よう に きまり が 悪かっ た もの だ が 、 近頃 は 知ら ない という 事 が 、 それほど の 恥 で ない よう に 見え 出し た もの だ から 、 つい 無理 に も本 を 読ん で みよ う という 元気 が 出 なく なっ た の でしょ う 。 まあ 早く いえ ば 老い込ん だ の です
souseki もう少し 様子 を 見 て から に し ましょ う か と 私 は 母 に 相談 し た 。
souseki 珍 らしい 事 。 私 に 呑め と おっしゃっ た 事 は 滅多 めった に ない のに ね
souseki 私 は 今度 の 事件 について 先生 に 手紙 を 書こ う か と 思っ て 、 筆 を 執 と り かけ た 。 私 は それ を 十 行 ばかり 書い て 已 や め た 。 書い た 所 は 寸々 すん ずん に 引き裂い て 屑 籠 くずかご へ 投げ込ん だ 。 ( 先生 に 宛 あ て て そういう 事 を 書い て も 仕方 が ない とも 思っ た し 、 前例 に 徴 ちょう し て みる と 、 とても 返事 を くれ そう に なかっ た から ) 。 私 は 淋 さび しかっ た 。 それで 手紙 を 書く の で あっ た 。 そうして 返事 が 来れ ば 好 い いと 思う の で あっ た 。
souseki その 日 ちょうど 同じ 時間 に 講義 の 始まる 時間割 に なっ て い た ので 、 二 人 は やがて いっしょ に 宅 うち を 出 まし た 。 今朝 けさ から 昨夕 の 事 が 気 に 掛 かか って いる 私 は 、 途中 で また K を 追窮 つい きゅう し まし た 。 けれども K は やはり 私 を 満足 さ せる よう な 答え を し ませ ん 。 私 は あの 事件 について 何 か 話す つもり で は なかっ た の か と 念 を 押し て み まし た 。 K は そう で は ない と 強い 調子 で いい 切り まし た 。 昨日 きのう 上野 で その 話 は もう 止 や め よう といった で は ない か と 注意 する ごとく に も 聞こえ まし た 。 K は そういう 点 に 掛け て 鋭い 自尊心 を もっ た 男 な の です 。 ふと そこ に 気 の つい た 私 は 突然 彼 の 用い た 覚悟 という 言葉 を 連想 し 出し まし た 。 すると 今 まで まるで 気 に なら なかっ た その 二 字 が 妙 な 力 で 私 の 頭 を 抑 お さ え 始め た の です 。
souseki 手紙 の 内容 は 簡単 でし た 。 そうして むしろ 抽象 的 でし た 。 自分 は 薄志弱行 はく し じゃっ こう で 到底 | 行先 ゆく さき の 望み が ない から 、 自殺 する と いう だけ な の です 。 それから 今 まで 私 に 世話 に なっ た 礼 が 、 ごく あっさり と し た 文句 で その後 あと に 付け加え て あり まし た 。 世話 ついで に 死後 の 片 付 方 かたづけ かた も 頼み たい という 言葉 も あり まし た 。 奥さん に 迷惑 を 掛け て 済ま ん から 宜 よろ しく 詫 わび を し て くれ という 句 も あり まし た 。 国元 へ は 私 から 知らせ て もらい たい という 依頼 も あり まし た 。 必要 な 事 は みんな 一 口 ひとくち ずつ 書い て ある 中 に お嬢さん の 名前 だけ は どこ に も 見え ませ ん 。 私 は し まい まで 読ん で 、 すぐ K が わざと 回避 し た の だ という 事 に 気が付き まし た 。 しかし 私 の もっとも 痛切 に 感じ た の は 、 最後 に 墨 すみ の 余り で 書き添え たらしく 見える 、 もっと 早く 死ぬ べき だ のに なぜ 今 まで 生き て い た の だろ う という 意味 の 文句 でし た 。
souseki 奥さん は はたして 留守 でし た 。 下女 げじ ょ も 奥さん と いっしょ に 出 た の でし た 。 だから 家 うち に 残っ て いる の は 、 K と お嬢さん だけ だっ た の です 。 私 は ちょっと 首 を 傾け まし た 。 今 まで 長い 間 世話 に なっ て い た けれども 、 奥さん が お嬢さん と 私 だけ を 置き去り に し て 、 宅 うち を 空け た 例 ためし は まだ なかっ た の です から 。 私 は 何 か 急用 で も でき た の か と お嬢さん に 聞き返し まし た 。 お嬢さん は ただ 笑っ て いる の です 。 私 は こんな 時 に 笑う 女 が 嫌い でし た 。 若い 女 に 共通 な 点 だ と いえ ば それ まで かも 知れ ませ ん が 、 お嬢さん も 下ら ない 事 に よく 笑い た がる 女 でし た 。 しかし お嬢さん は 私 の 顔色 を 見 て 、 すぐ 不断 ふだん の 表情 に 帰り まし た 。 急用 で は ない が 、 ちょっと 用 が あっ て 出 た の だ と 真面目 まじめ に 答え まし た 。 下宿 人 の 私 に は それ 以上 問い詰める 権利 は あり ませ ん 。 私 は 沈黙 し まし た 。
souseki お前 は 嫌 き ら い だ から さ 。 しかし 稀 たま に は 飲む と いい よ 。 好 い い 心持 に なる よ
souseki 私 が 奥さん と 話し て いる 間 に 、 問題 が 自然 先生 の 事 から そこ へ 落ち て 来 た 。
souseki 先生 は これ 以外 に 何 も 答え なかっ た 。 私 も その 話 は それ ぎりにして 切り上げ た 。 すると 一 | 町 ちょう ほど 歩い た 後 あと で 、 先生 が 不意 に そこ へ 戻っ て 来 た 。
souseki 一 人 | 貰 もら って やろ う か と 先生 が いっ た 。
souseki 何 です か
souseki これ は 奥さん に 特色 が ない と いう より も 、 特色 を 示す 機会 が 来 なかっ た の だ と 解釈 する 方 が 正当 かも 知れ ない 。 しかし 私 は いつ でも 先生 に 付属 し た 一部分 の よう な 心持 で 奥さん に 対し て い た 。 奥さん も 自分 の 夫 の 所 へ 来る 書生 だ から という 好意 で 、 私 を 遇 し て い た らしい 。 だから 中間 に 立つ 先生 を 取り 除 の けれ ば 、 つまり 二 人 は ばらばら に なっ て い た 。 それで 始めて 知り合い に なっ た 時 の 奥さん について は 、 ただ 美しい という 外 ほか に 何 の 感じ も 残っ て い ない 。
souseki 冬休み が 来る に は まだ 少し 間 ま が あっ た 。 私 は 学期 の 終り まで 待っ て い て も 差 支 さ し つ か え ある まい と 思っ て 一 日 二 日 そのまま に し て おい た 。 すると その 一 日 二 日 の 間 に 、 父 の 寝 て いる 様子 だの 、 母 の 心配 し て いる 顔 だ の が 時々 眼 に 浮かん だ 。 その たび に 一種 の 心苦し さ を 嘗 な め た 私 は 、 とうとう 帰る 決心 を し た 。 国 から 旅費 を 送ら せる 手数 てか ず と 時間 を 省く ため 、 私 は 暇 乞 いと ま ご い かたがた 先生 の 所 へ 行っ て 、 要 い る だけ の 金 を 一時 立て替え て もらう 事 に し た 。
souseki 妻 が 私 を 誤解 する の です 。 それ を 誤解 だ と いっ て 聞か せ て も 承知 し ない の です 。 つい 腹 を 立て た の です
souseki 召し上がっ て 下さい よ 。 その 方 が 淋 さむ しく なくっ て 好い から
souseki 意味 と いっ て 、 深い 意味 も あり ませ ん 。 —— つまり 事実 な ん です よ 。 理屈 じゃ ない ん だ
souseki 子供 らしい 私 は 、 故郷 ふるさと を 離れ て も 、 まだ 心 の 眼 で 、 懐かし げ に 故郷 の 家 を 望ん で い まし た 。 固 より そこ に は まだ 自分 の 帰る べき 家 が ある という 旅人 た びびと の 心 で 望ん で い た の です 。 休み が 来れ ば 帰ら なく て は なら ない という 気分 は 、 いくら 東京 を 恋し がっ て 出 て 来 た 私 に も 、 力強く あっ た の です 。 私 は 熱心 に 勉強 し 、 愉快 に 遊ん だ 後 あと 、 休み に は 帰れる と 思う その 故郷 の 家 を よく 夢 に 見 まし た 。
souseki その後 ご 私 わたくし は 奥さん の 顔 を 見る たび に 気 に なっ た 。 先生 は 奥さん に対して も 始終 こういう 態度 に 出る の だろ う か 。 もし そう だ と すれ ば 、 奥さん は それ で 満足 な の だろ う か 。
souseki 父 の 病気 は 幸い 現状 維持 の まま で 、 少し も 悪い 方 へ 進む 模様 は 見え なかっ た 。 念 の ため に わざわざ 遠く から 相当 の 医者 を 招い たり し て 、 慎重 に 診察 し て もらっ て も やはり 私 の 知っ て いる 以外 に 異状 は 認め られ なかっ た 。 私 は 冬休み の 尽きる 少し 前 に 国 を 立つ 事 に し た 。 立つ と いい 出す と 、 人情 は 妙 な もの で 、 父 も 母 も 反対 し た 。
souseki 先生 の 卒業 証書 は どう し まし た と 私 が 聞い た 。
souseki 兄 が 帰っ て 来 た 時 、 父 は 寝 ながら 新聞 を 読ん で い た 。 父 は 平生 へい ぜ い から 何 を 措 お い て も 新聞 だけ に は 眼 を 通す 習慣 で あっ た が 、 床 とこ に つい て から は 、 退屈 の ため 猶 更 なおさら それ を 読み た がっ た 。 母 も 私 わたくし も 強 し い て は 反対 せ ず に 、 なるべく 病人 の 思い 通り に さ せ て おい た 。
souseki あなた は 特別 よ
souseki 父 は 渋面 しゅう めん を つくっ た 。 父 の 考え は 、 古く 住み慣れ た 郷里 から 外 へ 出る 事 を 知ら なかっ た 。 その 郷里 の 誰彼 だれ かれ から 、 大学 を 卒業 すれ ば いくら ぐらい 月給 が 取れる もの だろ う と 聞か れ たり 、 まあ 百 円 ぐらい な もの だろ う か と いわ れ たり し た 父 は 、 こういう 人々 に対して 、 外聞 の 悪く ない よう に 、 卒業 したて の 私 を 片付け たかっ た の で ある 。 広い 都 を 根拠地 として 考え て いる 私 は 、 父 や 母 から 見る と 、 まるで 足 を 空 に 向け て 歩く 奇 体 き たい な 人間 に 異なら なかっ た 。 私 の 方 で も 、 実際 そういう 人間 の よう な 気持 を 折々 起し た 。 私 は あからさま に 自分 の 考え を 打ち明ける に は 、 あまりに 距離 の 懸隔 けんか く の 甚 はなはだ し い 父 と 母 の 前 に 黙然 も くねん と し て い た 。
souseki 今 まで 書物 で 城壁 を きずい て その 中 に 立て 籠 こ も って い た よう な K の 心 が 、 段々 打ち解け て 来る の を 見 て いる の は 、 私 に 取っ て 何 より も 愉快 でし た 。 私 は 最初 から そうした 目的 で 事 を やり 出し た の です から 、 自分 の 成功 に 伴う 喜悦 を 感ぜ ず に は い られ なかっ た の です 。 私 は 本人 に いわ ない 代り に 、 奥さん と お嬢さん に 自分 の 思っ た 通り を 話し まし た 。 二 人 も 満足 の 様子 でし た 。
souseki まあ 、 ご 遠慮 申し た 方 が よかろ う
souseki 私 が 進も う か 止 よ そう か と 考え て 、 ともかく も 翌日 あくる ひ まで 待と う と 決心 し た の は 土曜 の 晩 でし た 。 ところが その 晩 に 、 K は 自殺 し て 死ん で しまっ た の です 。 私 は 今 でも その 光景 を 思い出す と 慄然 ぞ っ と し ます 。 いつも 東 枕 ひがし まくら で 寝る 私 が 、 その 晩 に 限っ て 、 偶然 西 枕 に 床 とこ を 敷い た の も 、 何 か の 因縁 い ん ねん かも 知れ ませ ん 。 私 は 枕元 から 吹き込む 寒い 風 で ふと 眼 を 覚まし た の です 。 見る と 、 いつも 立て 切っ て ある K と 私 の 室 へや と の 仕切 しきり の 襖 ふす ま が 、 この間 の 晩 と 同じ くらい 開 あ い て い ます 。 けれども この間 の よう に 、 K の 黒い 姿 は そこ に は 立っ て い ませ ん 。 私 は 暗示 を 受け た 人 の よう に 、 床 の 上 に 肱 ひじ を 突い て 起き上がり ながら 、 屹 きっ と K の 室 を 覗 の ぞ き まし た 。 洋 燈 ランプ が 暗く 点 とも って いる の です 。 それで 床 も 敷い て ある の です 。 しかし 掛蒲団 かけ ぶと ん は 跳返 はねかえ さ れ た よう に 裾 すそ の 方 に 重なり合っ て いる の です 。 そう し て K 自身 は 向う むき に 突 つ ッ 伏 ぷ し て いる の です 。
souseki 或 あ る 時 は あまり K の 様子 が 強く て 高い ので 、 私 は かえって 安心 し た 事 も あり ます 。 そうして 自分 の 疑い を 腹の中 で 後悔 する と共に 、 同じ 腹の中 で 、 K に 詫 わ びました 。 詫び ながら 自分 が 非常 に 下等 な 人間 の よう に 見え て 、 急 に 厭 いや な 心持 に なる の です 。 しかし 少時 しばらく する と 、 以前 の 疑い が また 逆戻り を し て 、 強く 打ち返し て 来 ます 。 すべて が 疑い から 割り出さ れる の です から 、 すべて が 私 に は 不利益 でし た 。 容貌 よう ぼう も K の 方 が 女 に 好か れる よう に 見え まし た 。 性質 も 私 の よう に こせこせ し て い ない ところ が 、 異性 に は 気に入る だろ う と 思わ れ まし た 。 どこ か 間 ま が 抜け て い て 、 それで どこ か に 確 しっ かり し た 男らしい ところ の ある 点 も 、 私 より は 優勢 に 見え まし た 。 学力 がく りき に なれ ば 専門 こそ 違い ます が 、 私 は 無論 K の 敵 で ない と 自覚 し て い まし た 。 —— すべて 向う の 好 い いとこ ろ だけ が こう 一 度 に 眼 先 めさ き へ 散ら つき 出す と 、 ちょっと 安心 し た 私 は すぐ 元 の 不安 に 立ち返る の です 。
souseki 私 は すぐ 下宿 へ は 戻ら なかっ た 。 国 へ 帰る 前 に 調 と と の える 買物 も あっ た し 、 ご馳走 ち そう を 詰め た 胃袋 に くつろぎ を 与える 必要 も あっ た ので 、 ただ 賑 にぎ や かな 町 の 方 へ 歩い て 行っ た 。 町 は まだ 宵の口 で あっ た 。 用事 も な さ そう な 男女 なん に ょ が ぞろぞろ 動く 中 に 、 私 は 今日 私 と いっしょ に 卒業 し た なにがし に 会っ た 。 彼 は 私 を 無理やり に ある 酒場 バー へ 連れ込ん だ 。 私 は そこ で 麦酒 ビール の 泡 の よう な 彼 の 気 ※[# 陷 の つくり + 炎 、 第 3 水準 1 - 87 - 64 ] きえ ん を 聞かさ れ た 。 私 の 下宿 へ 帰っ た の は 十 二 時 過ぎ で あっ た 。
souseki 奥さん は 私 に 結構 ね 。 さぞ お 父 とう さん や お 母 か あ さん は お 喜び でしょ う と いっ て くれ た 。 私 は 突然 病気 の 父 の 事 を 考え た 。 早く あの 卒業 証書 を 持っ て 行っ て 見せ て やろ う と 思っ た 。
souseki 私 は 単に 好奇 心 の ため に 、 並ん で 浜辺 を 下り て 行く 二 人 の 後姿 う しろ す がた を 見守っ て い た 。 すると 彼ら は 真直 まっすぐ に 波 の 中 に 足 を 踏み込ん だ 。 そうして 遠浅 とお あ さ の 磯 近 い そち か くに わいわい 騒い で いる 多人数 た にん ず の 間 あいだ を 通り抜け て 、 比較的 広々 し た 所 へ 来る と 、 二 人 とも 泳ぎ 出し た 。 彼ら の 頭 が 小さく 見える まで 沖 の 方 へ 向い て 行っ た 。 それから 引き返し て また 一直線 に 浜辺 まで 戻っ て 来 た 。 掛茶屋 へ 帰る と 、 井戸 の 水 も 浴び ず に 、 すぐ 身体 から だ を 拭 ふ い て 着物 を 着 て 、 さっさと どこ へ か 行っ て しまっ た 。
souseki イゴイスト は いけ ない ね 。 何 も し ない で 生き て いよ う という の は 横着 な 了簡 りょうけん だ から ね 。 人 は 自分 の もっ て いる 才能 を できるだけ 働かせ なくっ ちゃ 嘘 うそ だ
souseki 兄弟 は まだ 父 の 死な ない 前 から 、 父 の 死ん だ 後 あと について 、 こんな 風 に 語り合っ た 。
souseki 妻 は ある 時 、 男 の 心 と 女 の 心 と は どうしても ぴたり と 一つ に なれ ない もの だろ う か と いい まし た 。 私 は ただ 若い 時 なら なれる だろ う と 曖昧 あいまい な 返事 を し て おき まし た 。 妻 は 自分 の 過去 を 振り返っ て 眺 な が め て いる よう でし た が 、 やがて 微 かす か な 溜息 ためいき を 洩 も らし まし た 。
souseki 伯父 おじ が 見舞 に 来 た とき 、 父 は いつ まで も 引き留め て 帰さ なかっ た 。 淋 さむ しい から もっと い て くれ という の が 重 おも な 理由 で あっ た が 、 母 や 私 が 、 食べ たい だけ 物 を 食べ させ ない という 不平 を 訴える の も 、 その 目的 の 一つ で あっ た らしい 。
souseki 私 は K に 向っ て お嬢さん と いっしょ に 出 た の か と 聞き まし た 。 K は そう で は ない と 答え まし た 。 真砂 町 まさ ご ちょう で 偶然 出会っ た から 連れ立っ て 帰っ て 来 た の だ と 説明 し まし た 。 私 は それ 以上 に 立ち入っ た 質問 を 控え なけれ ば なり ませ ん でし た 。 しかし 食事 の 時 、 また お嬢さん に 向っ て 、 同じ 問い を 掛け たく なり まし た 。 すると お嬢さん は 私 の 嫌い な 例 の 笑い 方 を する の です 。 そう し て どこ へ 行っ た か 中 あ て て みろ と しまいに いう の です 。 その 頃 ころ の 私 は まだ 癇癪 かん しゃく 持 も ち でし た から 、 そう 不 真面目 ふま じ め に 若い 女 から 取り扱わ れる と 腹 が 立ち まし た 。 ところが そこ に 気 の 付く の は 、 同じ 食卓 に 着い て いる もの の うち で 奥さん 一 人 だっ た の です 。 K は むしろ 平気 でし た 。 お嬢さん の 態度 に なる と 、 知っ て わざと やる の か 、 知ら ない で 無邪気 むじゃき に やる の か 、 そこ の 区別 が ちょっと 判然 はんぜ ん し ない 点 が あり まし た 。 若い 女 として お嬢さん は 思慮 に 富ん だ 方 ほう でし た けれども 、 その 若い 女 に 共通 な 私 の 嫌い な ところ も 、 ある と 思え ば 思え なく も なかっ た の です 。 そうして その 嫌い な ところ は 、 K が 宅 へ 来 て から 、 始め て 私 の 眼 に 着き 出し た の です 。 私 は それ を K に対する 私 の 嫉妬 しっと に 帰 き し て いい もの か 、 または 私 に対する お嬢さん の 技巧 と 見 傚 みな し て しかる べき もの か 、 ちょっと 分別 に 迷い まし た 。 私 は 今 でも 決して その 時 の 私 の 嫉妬 心 を 打ち消す 気 は あり ませ ん 。 私 は たびたび 繰り返し た 通り 、 愛 の 裏面 り めん に この 感情 の 働き を 明らか に 意識 し て い た の です から 。 しかも 傍 はた の もの から 見る と 、 ほとんど 取る に 足り ない 瑣事 さじ に 、 この 感情 が きっと 首 を 持ち上げ た がる の でし た から 。 これ は 余事 よじ です が 、 こういう 嫉妬 しっと は 愛 の 半面 じゃ ない でしょ う か 。 私 は 結婚 し て から 、 この 感情 が だんだん 薄らい で 行く の を 自覚 し まし た 。 その 代り 愛情 の 方 も 決して 元 の よう に 猛烈 で は ない の です 。
souseki 飯 めし に なっ た 時 、 奥さん は 傍 そば に 坐 すわ って いる 下女 げじ ょ を 次 へ 立た せ て 、 自分 で 給仕 きゅうじ の 役 を つとめ た 。 これ が 表立た ない 客 に対する 先生 の 家 の 仕 来 しき た り らしかっ た 。 始め の 一 、 二 回 は 私 わたくし も 窮屈 を 感じ た が 、 度数 の 重なる につけ 、 茶碗 ちゃわ ん を 奥さん の 前 へ 出す の が 、 何 でも なくなっ た 。
souseki 私 は 私 に も 最後 の 決断 が 必要 だ という 声 を 心 の 耳 で 聞き まし た 。 私 は すぐ その 声 に 応じ て 勇気 を 振り起し まし た 。 私 は K より 先 に 、 しかも K の 知ら ない 間 ま に 、 事 を 運ば なく て は なら ない と 覚悟 を 極 き め まし た 。 私 は 黙っ て 機会 を 覘 ねら って い まし た 。 しかし 二 日 | 経 た って も 三 日 経っ て も 、 私 は それ を 捕 つら まえる 事 が でき ませ ん 。 私 は K の い ない 時 、 また お嬢さん の 留守 な 折 を 待っ て 、 奥さん に 談判 を 開こ う と 考え た の です 。 しかし 片方 が い なけれ ば 、 片方 が 邪魔 を する といった 風 ふう の 日 ばかり 続い て 、 どうしても 今 だ と 思う 好都合 が 出 て 来 て くれ ない の です 。 私 は いらいら し まし た 。
souseki じゃ 失礼 です が もっと 真中 へ 出 て 来 て 頂戴 ちょうだい 。 ご 退屈 た いくつ だろ う と 思っ て 、 お茶 を 入れ て 持っ て 来 た ん です が 、 茶の間 で 宜 よろ しけれ ば あちら で 上げ ます から
souseki K の 養子 先 も かなり な 財産 家 でし た 。 K は そこ から 学資 を 貰 もら って 東京 へ 出 て 来 た の です 。 出 て 来 た の は 私 と いっしょ で なかっ た けれども 、 東京 へ 着い て から は 、 すぐ 同じ 下宿 に 入り まし た 。 その 時分 は 一つ 室 へや に よく 二 人 も 三 人 も 机 を 並べ て 寝 起 ね お きし た もの です 。 K と 私 も 二 人 で 同じ 間 ま に い まし た 。 山 で 生 捕 い けど られ た 動物 が 、 檻 おり の 中 で 抱き合い ながら 、 外 を 睨 に ら め る よう な もの でし たろ う 。 二 人 は 東京 と 東京 の 人 を 畏 おそ れ まし た 。 それでいて 六 畳 の 間 ま の 中 で は 、 天下 を 睥睨 へいげい する よう な 事 を いっ て い た の です 。
souseki なるほど 迷惑 という 様子 は 、 先生 の どこ に も 見え なかっ た 。 私 は 先生 の 交際 の 範囲 の 極 きわ め て 狭い 事 を 知っ て い た 。 先生 の 元 の 同級生 など で 、 その 頃 ころ 東京 に いる もの は ほとんど 二 人 か 三 人 しか ない という 事 も 知っ て い た 。 先生 と 同郷 の 学生 など に は 時たま 座敷 で 同座 する 場合 も あっ た が 、 彼ら の いずれ も は 皆 み ん な 私 ほど 先生 に 親しみ を もっ て い ない よう に 見受け られ た 。
souseki お母さん 一 人 じゃ 、 どう する 事 も でき ない だろ う と 兄 が また いっ た 。 兄 は 私 を 土 の 臭 に お い を 嗅 か い で 朽ち て 行っ て も 惜しく ない よう に 見 て い た 。
souseki おれ の ため に かい と 父 が 聞き返し た 。
souseki 私 の 胸 に は その 時分 から 時々 恐ろしい 影 が 閃 ひらめ き まし た 。 初め は それ が 偶然 | 外 そ と から 襲っ て 来る の です 。 私 は 驚き まし た 。 私 は ぞっと し まし た 。 しかし しばらく し て いる 中 うち に 、 私 の 心 が その 物凄 ものすご い 閃き に 応ずる よう に なり まし た 。 しまいに は 外 から 来 ない でも 、 自分 の 胸 の 底 に 生れ た 時 から 潜 ひそ んで いる ものの ごとく に 思わ れ 出し て 来 た の です 。 私 は そうした 心持 に なる たび に 、 自分 の 頭 が どうか し た の で は なかろ うかと 疑 うたぐ って み まし た 。 けれども 私 は 医者 に も 誰 に も 診 み て もらう 気 に は なり ませ ん でし た 。
souseki K の 復籍 し た の は 一 年生 の 時 でし た 。 それ から 二 年生 の 中頃 なか ごろ に なる まで 、 約 一 年 半 の 間 、 彼 は 独力 で 己 おの れ を 支え て いっ た の です 。 ところが この 過度 の 労力 が 次第に 彼 の 健康 と 精神 の 上 に 影響 し て 来 た よう に 見え 出し まし た 。 それ に は 無論 養家 を 出る 出 ない の 蒼 蠅 うる さ い 問題 も 手伝っ て い た でしょ う 。 彼 は 段々 | 感傷 的 センチメンタル に なっ て 来 た の です 。 時に よる と 、 自分 だけ が 世の中 の 不幸 を 一 人 で 背負 しょ って 立っ て いる よう な 事 を いい ます 。 そう し て それ を 打ち消せ ば すぐ 激 する の です 。 それから 自分 の 未来 に 横 よ こ た わる 光明 こう みょう が 、 次第に 彼 の 眼 を 遠 退 とおの い て 行く よう に も 思っ て 、 いらいら する の です 。 学問 を やり 始め た 時 に は 、 誰 しも 偉大 な 抱負 を もっ て 、 新しい 旅 に 上 のぼ る の が 常 です が 、 一 年 と 立ち 二 年 と 過ぎ 、 もう 卒業 も 間近 に なる と 、 急 に 自分 の 足 の 運び の 鈍 のろ いの に 気が付い て 、 過半 は そこ で 失望 する の が 当り前 に なっ て い ます から 、 K の 場合 も 同じ な の です が 、 彼 の 焦慮 あせ り 方 は また 普通 に 比べる と 遥 はる か に 甚 はなはだ しかっ た の です 。 私 は ついに 彼 の 気分 を 落ち 付ける の が 専一 せん いち だ と 考え まし た 。
souseki 先生 は 嬉 うれ し そう な 私 の 顔 を 見 て 、 もう 論文 は 片付い た ん です か 、 結構 です ね と いっ た 。 私 は お蔭 かげ で ようやく 済み まし た 。 もう 何 に も する 事 は あり ませ ん と いっ た 。
souseki 奥さん は 手 に 紅茶 茶碗 こうち ゃぢゃわん を 持っ た まま 、 笑い ながら そこ に 立っ て い た 。
souseki 奥さん は 急 に 薄 赤い 顔 を し た 。
souseki こういう 父 の 顔 に は 深い 掛 念 け ねん の 曇 くも り が かかっ て い た 。 こう いわ れる 私 の 胸 に は また 父 が い つ 斃 たお れる か 分ら ない という 心配 が ひらめい た 。
souseki 私 は 思い切っ て 自分 の 心 を K に 打ち明けよ う と し まし た 。 もっとも これ は その 時 に 始まっ た 訳 で も なかっ た の です 。 旅 に 出 ない 前 から 、 私 に は そうした 腹 が でき て い た の です けれども 、 打ち明ける 機会 を つら まえる 事 も 、 その 機会 を 作り出す 事 も 、 私 の 手際 て ぎわ で は 旨 うま く ゆか なかっ た の です 。 今 から 思う と 、 その 頃 私 の 周囲 に い た 人間 は みんな 妙 でし た 。 女 に関して 立ち入っ た 話 など を する もの は 一 人 も あり ませ ん でし た 。 中 に は 話す 種 たね を もた ない の も 大分 だいぶ い た でしょ う が 、 たとい もっ て い て も 黙っ て いる の が 普通 の よう でし た 。 比較的 自由 な 空気 を 呼吸 し て いる 今 の あなた が た から 見 たら 、 定めし 変 に 思わ れる でしょ う 。 それ が 道学 どう がく の 余 習 よ しゅう な の か 、 または 一種 の はにかみ な の か 、 判断 は あなた の 理解 に 任せ て おき ます 。
souseki 私 は はっと 思っ た 。 今 まで ざわざわ と 動い て い た 私 の 胸 が 一 度 に 凝結 ぎょ うけ つ し た よう に 感じ た 。 私 は また 逆 に 頁 を はぐり 返し た 。 そうして 一 枚 に 一句 ぐらい ずつ の 割 で 倒 さ か さ に 読ん で 行っ た 。 私 は 咄嗟 とっさ の 間 あいだ に 、 私 の 知ら なけれ ば なら ない 事 を 知ろ う として 、 ちらちら する 文字 もん じ を 、 眼 で 刺し通そ う と 試み た 。 その 時 私 の 知ろ う と する の は 、 ただ 先生 の 安否 だけ で あっ た 。 先生 の 過去 、 かつて 先生 が 私 に 話そ う と 約束 し た 薄暗い その 過去 、 そんな もの は 私 に 取っ て 、 全く 無用 で あっ た 。 私 は 倒 さ か さ ま に 頁 を はぐり ながら 、 私 に 必要 な 知識 を 容易 に 与え て くれ ない この 長い 手紙 を 自 烈 じれ っ た そう に 畳ん だ 。
souseki 二 人 は 各自 めいめい の 室 へや に 引き取っ た ぎり 顔 を 合わせ ませ ん でし た 。 K の 静か な 事 は 朝 と 同じ でし た 。 私 わたくし も 凝 じ っ と 考え込ん で い まし た 。
souseki 私 は 東京 へ 来 て 高等 学校 へ はいり まし た 。 その 時 の 高等 学校 の 生徒 は 今 より も よほど 殺伐 さ つば つ で 粗野 でし た 。 私 の 知っ た もの に 、 夜中 よる 職人 と 喧嘩 けんか を し て 、 相手 の 頭 へ 下駄 げた で 傷 を 負わ せ た の が あり まし た 。 それ が 酒 を 飲ん だ 揚句 あげく の 事 な ので 、 夢中 に 擲 なぐ り 合い を し て いる 間 あいだ に 、 学校 の 制帽 を とうとう 向う の もの に 取ら れ て しまっ た の です 。 ところが その 帽子 の 裏 に は 当人 の 名前 が ちゃんと 、 菱形 ひしが た の 白 いきれ の 上 に 書い て あっ た の です 。 それで 事 が 面倒 に なっ て 、 その 男 は もう少し で 警察 から 学校 へ 照会 さ れる ところ でし た 。 しかし 友達 が 色々 と 骨 を 折っ て 、 ついに 表沙汰 お もて ざた に せ ず に 済む よう に し て やり まし た 。 こんな 乱暴 な 行為 を 、 上品 な 今 の 空気 の なか に 育っ た あなた 方 に 聞か せ たら 、 定め て 馬鹿 馬鹿 ばか ばか し い 感じ を 起す でしょ う 。 私 も 実際 馬鹿馬鹿しく 思い ます 。 しかし 彼ら は 今 の 学生 に ない 一 種 | 質朴 し つ ぼく な 点 を その 代り に もっ て い た の です 。 当時 私 の 月々 叔父 から 貰 もら って い た 金 は 、 あなた が 今 、 お父さん から 送っ て もらう 学資 に 比べる と 遥 はる か に 少ない もの でし た 。 ( 無論 物価 も 違い ましょ う が ) 。 それでいて 私 は 少し の 不足 も 感じ ませ ん でし た 。 のみ なら ず 数 ある 同級生 の うち で 、 経済 の 点 にかけて は 、 決して 人 を 羨 うら や まし がる 憐 あわ れ な 境遇 に い た 訳 で は ない の です 。 今 から 回顧 する と 、 むしろ 人 に 羨まし がら れる 方 だっ た の でしょ う 。 という の は 、 私 は 月々 | 極 きま っ た 送金 の 外 に 、 書籍 費 、 ( 私 は その 時分 から 書物 を 買う 事 が 好き でし た ) 、 および 臨時 の 費用 を 、 よく 叔父 から 請求 し て 、 ずんずん それ を 自分 の 思う よう に 消費 する 事 が でき た の です から 。
souseki ええ
souseki 碁 ご だ と 盤 が 高 過ぎる 上 に 、 足 が 着い て いる から 、 炬燵 の 上 で は 打て ない が 、 そこ へ 来る と 将 碁盤 は 好 い いね 、 こうして 楽 に 差せる から 。 無精 者 に は 持っ て 来い だ 。 もう 一番 やろ う
souseki しかし 気 を 付け ない と いけ ない 。 恋 は 罪悪 な ん だ から 。 私 の 所 で は 満足 が 得 られ ない 代り に 危険 も ない が 、 —— 君 、 黒い 長い 髪 で 縛ら れ た 時 の 心持 を 知っ て い ます か
souseki 私 が 家 へ はいる と 間もなく 俥 くるま の 音 が 聞こえ まし た 。 今 の よう に 護謨 輪 ゴム わ の ない 時分 でし た から 、 がらがら いう 厭 いや な 響 ひび きが かなり の 距離 で も 耳 に 立つ の です 。 車 は やがて 門前 で 留まり まし た 。
souseki 先生 が ああ いう 風 ふう に なっ た 源 因 げん い ん について です か
souseki 奥さん と 私 は できる だけ の 手際 て ぎわ と 工夫 を 用い て 、 K の 室 へや を 掃除 し まし た 。 彼 の 血潮 の 大 部分 は 、 幸い 彼 の 蒲団 ふとん に 吸収 さ れ て しまっ た ので 、 畳 は それほど 汚れ ない で 済み まし た から 、 後始末 は [ # 後始末 は は 底本 で は 後 始 未 は ] まだ 楽 でし た 。 二 人 は 彼 の 死骸 し がい を 私 の 室 に 入れ て 、 不断 の 通り 寝 て いる 体 てい に 横 に し まし た 。 私 は それ から 彼 の 実家 へ 電報 を 打ち に 出 た の です 。
souseki 私 は ただ 人間 の 罪 という もの を 深く 感じ た の です 。 その 感じ が 私 を K の 墓 へ 毎月 まい げ つ 行か せ ます 。 その 感じ が 私 に 妻 の 母 の 看護 を さ せ ます 。 そうして その 感じ が 妻 に 優しく してやれ と 私 に 命じ ます 。 私 は その 感じ の ため に 、 知ら ない 路傍 ろ ぼう の 人 から 鞭 むち うた れ たい と まで 思っ た 事 も あり ます 、 こうした 階段 を 段々 経過 し て 行く うち に 、 人 に 鞭 うた れる より も 、 自分 で 自分 を 鞭 うつ べき だ という 気 に なり ます 。 自分 で 自分 を 鞭 うつ より も 、 自分 で 自分 を 殺す べき だ という 考え が 起り ます 。 私 は 仕方 が ない から 、 死ん だ 気 で 生き て 行こ う と 決心 し まし た 。
souseki 卒業 証書 の 在処 あり どころ は 二 人 と も よく 知ら なかっ た 。
souseki そう いう と 、 夫 の 方 は いかにも 心丈夫 の よう で 少し 滑稽 こっけい だ が 。 君 、 私 は 君 の 眼 に どう 映り ます か ね 。 強い 人 に 見え ます か 、 弱い 人 に 見え ます か
souseki まあ そう よ
souseki 食卓 は 約束 通り 座敷 の 縁 えん 近く に 据え られ て あっ た 。 模様 の 織り 出さ れ た 厚い 糊 のり の 硬 こわ い 卓 布 テーブルクロース が 美しく かつ 清らか に 電 燈 の 光 を 射 返 いか え し て い た 。 先生 の うち で 飯 めし を 食う と 、 きっと この 西洋 料理 店 に 見る よう な 白い リンネル の 上 に 、 箸 はし や 茶碗 ちゃわ ん が 置か れ た 。 そう し て それ が 必ず 洗濯 したて の 真白 まっしろ な もの に 限ら れ て い た 。
souseki 記憶 し て 下さい 。 私 は こんな 風 ふう に し て 生き て 来 た の です 。 始め て あなた に 鎌倉 かまくら で 会っ た 時 も 、 あなた と いっしょ に 郊外 を 散歩 し た 時 も 、 私 の 気分 に 大した 変り は なかっ た の です 。 私 の 後ろ に は いつ でも 黒い 影 が 括 く ッ 付 つ い て い まし た 。 私 は 妻 さい の ため に 、 命 を 引きずっ て 世の中 を 歩い て い た よう な もの です 。 あなた が 卒業 し て 国 へ 帰る 時 も 同じ 事 でし た 。 九月 に なっ たら また あなた に 会お う と 約束 し た 私 は 、 嘘 うそ を 吐 つ い た の で は あり ませ ん 。 全く 会う 気 で い た の です 。 秋 が 去っ て 、 冬 が 来 て 、 その 冬 が 尽き て も 、 きっと 会う つもり で い た の です 。
souseki K は 小さな ナイフ で 頸動 脈 けい どう みゃく を 切っ て 一息 ひと いき に 死ん で しまっ た の です 。 外 ほか に 創 き ず らしい もの は 何 に も あり ませ ん でし た 。 私 が 夢 の よう な 薄暗い 灯 ひ で 見 た 唐紙 の 血潮 は 、 彼 の 頸筋 く びすじ から 一 度 に 迸 ほとばし っ た もの と 知れ まし た 。 私 は 日 中 に っちゅう の 光 で 明らか に その 迹 あと を 再び 眺 な が め まし た 。 そうして 人間 の 血 の 勢 いき お い という もの の 劇 はげ し い の に 驚き まし た 。
souseki 私 は ちょうど 他流 試合 でも する 人 の よう に K を 注意 し て 見 て い た の です 。 私 は 、 私 の 眼 、 私 の 心 、 私 の 身体 から だ 、 すべて 私 という 名 の 付く もの を 五 | 分 ぶ の 隙間 すき ま も ない よう に 用意 し て 、 K に 向っ た の です 。 罪 の ない K は 穴 だらけ と いう より むしろ 明け放し と 評する の が 適当 な くらい に 無 用心 でし た 。 私 は 彼 自身 の 手 から 、 彼 の 保管 し て いる 要塞 よう さい の 地図 を 受け取っ て 、 彼 の 眼 の 前 で ゆっくり それ を 眺 な が め る 事 が でき た も 同じ でし た 。
souseki 縁台 の 横 から 後部 へ 掛け て 植え付け て ある 杉 苗 の 傍 そば に 、 熊笹 くま ざさ が 三 坪 みつ ぼ ほど 地 を 隠す よう に 茂っ て 生え て い た 。 犬 は その 顔 と 背 を 熊笹 の 上 に 現 わし て 、 盛ん に 吠え 立て た 。 そこ へ 十 とお ぐらい の 小 供 こども が 馳 か け て 来 て 犬 を 叱 しか り 付け た 。 小 供 は 徽章 きしょう の 着い た 黒い 帽子 を 被 かぶ っ た まま 先生 の 前 へ 廻 ま わ って 礼 を し た 。
souseki その 西洋 人 の 優れ て 白い 皮膚 の 色 が 、 掛茶屋 へ 入る や 否 い な や 、 すぐ 私 の 注意 を 惹 ひ い た 。 純粋 の 日本 の 浴衣 ゆかた を 着 て い た 彼 は 、 それ を 床几 し ょうぎ の 上 に す ぽ り と 放 ほう り 出し た まま 、 腕組み を し て 海 の 方 を 向い て 立っ て い た 。 彼 は 我々 の 穿 は く 猿股 さる また 一つ の 外 ほか 何 物 も 肌 に 着け て い なかっ た 。 私 に は それ が 第 一 不思議 だっ た 。 私 は その 二 日 前 に 由井 ゆい が 浜 はま まで 行っ て 、 砂 の 上 に しゃがみ ながら 、 長い 間 西洋 人 の 海 へ 入る 様子 を 眺 な が め て い た 。 私 の 尻 しり を おろし た 所 は 少し 小高い 丘 の 上 で 、 その すぐ 傍 わき が ホテル の 裏口 に なっ て い た ので 、 私 の 凝 じ っ と し て いる 間 あいだ に 、 大分 だいぶ 多く の 男 が 塩 を 浴び に 出 て 来 た が 、 いずれ も 胴 と 腕 と 股 もも は 出し て い なかっ た 。 女 は 殊更 ことさら 肉 を 隠し がち で あっ た 。 大抵 は 頭 に 護謨 製 ゴム せい の 頭巾 ずきん を 被 かぶ って 、 海老茶 えび ちゃ や 紺 こん や 藍 あい の 色 を 波間 に 浮かし て い た 。 そういう 有様 を 目撃 し た ばかり の 私 の 眼 め に は 、 猿股 一つ で 済まし て 皆 み ん な の 前 に 立っ て いる この 西洋 人 が いかにも 珍しく 見え た 。
souseki そう 極 きま っ た 訳 で も ない わ 。 けれども 男 の 方 ほう は どうしても 、 そら 年 が 上 でしょ う
souseki その 時 私 の 足音 を 聞い て 出 て 来 た の は 、 奥さん でし た 。 奥さん は 黙っ て 室 の 真中 に 立っ て いる 私 を 見 て 、 気の毒 そう に 外套 を 脱が せ て くれ たり 、 日本 服 を 着せ て くれ たり し まし た 。 それから 私 が 寒い という の を 聞い て 、 すぐ 次の間 ま から K の 火鉢 を 持っ て 来 て くれ まし た 。 私 が K は もう 帰っ た の か と 聞き まし たら 、 奥さん は 帰っ て また 出 た と 答え まし た 。 その 日 も K は 私 より 後 おく れ て 帰る 時間割 だっ た の です から 、 私 は どう し た 訳 か と 思い まし た 。 奥さん は 大方 おおかた 用事 で も でき た の だろ う と いっ て い まし た 。
souseki 若い うち ほど 淋 さむ し い もの は あり ませ ん 。 そん なら なぜ あなた は そう たびたび 私 の 宅 うち へ 来る の です か
souseki 私 わたくし の 知る 限り 先生 と 奥さん と は 、 仲 の 好 い い 夫婦 の 一 対 いっ つい で あっ た 。 家庭 の 一員 として 暮し た 事 の ない 私 の こと だ から 、 深い 消息 は 無論 | 解 わか ら なかっ た けれども 、 座敷 で 私 と 対坐 た いざ し て いる 時 、 先生 は 何 か の ついで に 、 下女 げじ ょ を 呼ば ない で 、 奥さん を 呼ぶ 事 が あっ た 。 ( 奥さん の 名 は 静 しず といった ) 。 先生 は おい 静 と いつ でも 襖 ふす ま の 方 を 振り向い た 。 その 呼び かた が 私 に は 優 や さ しく 聞こえ た 。 返事 を し て 出 て 来る 奥さん の 様子 も 甚 はな は だ 素直 で あっ た 。 ときたま ご馳走 ち そう に なっ て 、 奥さん が 席 へ 現われる 場合 など に は 、 この 関係 が 一層 明らか に 二 人 の 間 あいだ に 描 え が き 出さ れる よう で あっ た 。
souseki そう でしょ う と 私 が いっ た 。
souseki 私 は 先生 が 私 の うち の 財産 を 聞い たり 、 私 の 父 の 病気 を 尋ね たり する の を 、 普通 の 談話 —— 胸 に 浮かん だ まま を その 通り 口 に する 、 普通 の 談話 と 思っ て 聞い て い た 。 ところが 先生 の 言葉 の 底 に は 両方 を 結び付ける 大きな 意味 が あっ た 。 先生 自身 の 経験 を 持た ない 私 は 無論 そこ に 気が付く はず が なかっ た 。
souseki どっち が 先 へ 死ぬ だろ う
souseki こんど 東京 へ 行く とき に は 椎茸 しいたけ でも 持っ て 行っ て お 上げ
souseki 無論 口 の 見付かる まで で 好 い い です から と も いっ た 。
souseki 私 は また 一 人 家 の なか へ はいっ た 。 自分 の 机 の 置い て ある 所 へ 来 て 、 新聞 を 読み ながら 、 遠い 東京 の 有様 を 想像 し た 。 私 の 想像 は 日本一 の 大きな 都 が 、 どんなに 暗い なか で どんなに 動い て いる だろ う か の 画面 に 集め られ た 。 私 は その 黒い なり に 動か なけれ ば 仕 末 の つか なく なっ た 都会 の 、 不安 で ざわざわ し て いる なか に 、 一 点 の 燈火 の ご とく に 先生 の 家 を 見 た 。 私 は その 時 この 燈火 が 音 の し ない 渦 うず の 中 に 、 自然 と 捲 ま き 込ま れ て いる 事 に 気が付か なかっ た 。 しばらく すれ ば 、 その 灯 ひ も また ふっと 消え て しまう べき 運命 を 、 眼 め の 前 に 控え て いる の だ と は 固 もと より 気が付か なかっ た 。
souseki それでも 私 は ついに 私 を 忘れる 事 が でき ませ ん でし た 。 私 は すぐ 机 の 上 に 置い て ある 手紙 に 眼 を 着け まし た 。 それ は 予期 通り 私 の 名宛 な あて に なっ て い まし た 。 私 は 夢中 で 封 を 切り まし た 。 しかし 中 に は 私 の 予期 し た よう な 事 は 何 に も 書い て あり ませ ん でし た 。 私 は 私 に 取っ て どんなに 辛 つら い 文句 が その 中 に 書き 列 つら ね て ある だろ う と 予期 し た の です 。 そうして 、 もし それ が 奥さん や お嬢さん の 眼 に 触れ たら 、 どんなに 軽蔑 さ れる かも 知れ ない という 恐怖 が あっ た の です 。 私 は ちょっと 眼 を 通し た だけ で 、 まず 助かっ た と 思い まし た 。 ( 固 もと より 世間体 せけ ん て い の 上 だけ で 助かっ た の です が 、 その 世間体 が この 場合 、 私 にとって は 非常 な 重大 事件 に 見え た の です 。 )
souseki 私 は 父 の 希望 する 地位 を 得 う る ため に 東京 へ 行く よう な 事 を いっ た 。
souseki 無 経験 な 私 は 気味 を 悪 がり ながら も 、 にやにや し て い た 。
souseki 父 は 勝っ た 時 は 必ず もう 一番 やろ う と いっ た 。 その くせ 負け た 時 に も 、 もう 一番 やろ う と いっ た 。 要するに 、 勝っ て も 負け て も 、 炬燵 にあたって 、 将 碁 を 差し た がる 男 で あっ た 。 始め の うち は 珍しい ので 、 この 隠居 いんきょ じみ た 娯楽 が 私 に も 相当 の 興味 を 与え た が 、 少し 時日 が 経 た つ に 伴 つ れ て 、 若い 私 の 気力 は その くらい な 刺戟 しげき で 満足 でき なく なっ た 。 私 は 金 きん や 香車 きょう しゃ を 握っ た 拳 こぶし を 頭 の 上 へ 伸ばし て 、 時々 思い切っ た あくび を し た 。
souseki 私 わたくし は その 翌日 よく じ つ も 暑 さ を 冒 おか し て 、 頼ま れ もの を 買い 集め て 歩い た 。 手紙 で 注文 を 受け た 時 は 何 で も ない よう に 考え て い た の が 、 いざ と なる と 大変 | 臆 劫 おっくう に 感ぜ られ た 。 私 は 電車 の 中 で 汗 を 拭 ふ き ながら 、 他 ひと の 時間 と 手数 に 気の毒 という 観念 を まるで もっ て い ない 田舎 者 いなか も の を 憎らしく 思っ た 。
souseki じゃ 奥さん も 信用 なさら ない ん です か と 先生 に 聞い た 。
souseki 門口 か ど ぐち を 出 て 二 、 三 | 町 ちょう 来 た 時 、 私 は ついに 先生 に 向かっ て 口 を 切っ た 。
souseki さきほど 先生 の いわ れ た 、 人間 は 誰 だれ で も いざ という 間際 に 悪人 に なる ん だ という 意味 です ね 。 あれ は どういう 意味 です か
souseki 私 は その間 に 自分 の 室 の 洋 燈 ランプ を 点 つ け まし た 。 それから 時計 を 折々 見 まし た 。 その 時 の 時計 ほど 埒 らち の 明 あ か ない 遅い もの は あり ませ ん でし た 。 私 の 起き た 時間 は 、 正確 に 分ら ない の です けれども 、 もう 夜明 よ あけ に 間 ま も なかっ た 事 だけ は 明らか です 。 ぐるぐる 廻 ま わ り ながら 、 その 夜明 を 待ち 焦 こ が れ た 私 は 、 永久 に 暗い 夜 が 続く の で は なかろ う か という 思い に 悩まさ れ まし た 。
souseki 相当 の 口 って 、 近頃 ちかごろ じゃ そんな 旨 うま い 口 は なかなか ある もの じゃ あり ませ ん 。 ことに 兄さん と 私 と は 専門 も 違う し 、 時代 も 違う ん だ から 、 二 人 を 同じ よう に 考え られ ちゃ 少し 困り ます
souseki 夕飯 ゆう めし の 時 、 お嬢さん は 私 を 変 な 人 だ と いい まし た 。 私 は その 時 も なぜ 変 な の か 聞か ず に しまい まし た 。 ただ 奥さん が 睨 に ら め る よう な 眼 を お嬢さん に 向ける の に 気が付い た だけ でし た 。
souseki 私 が 先生 と 知り合い に なっ た の は 鎌倉 かまくら で ある 。 その 時 私 は まだ 若々しい 書生 で あっ た 。 暑中 休暇 を 利用 し て 海水浴 に 行っ た 友達 から ぜひ 来い という 端書 はがき を 受け取っ た ので 、 私 は 多少 の 金 を 工面 くめ ん し て 、 出掛ける 事 に し た 。 私 は 金 の 工面 に 二 に 、 三 日 さん ち を 費やし た 。 ところが 私 が 鎌倉 に 着い て 三 日 と 経 た た ない うち に 、 私 を 呼び寄せ た 友達 は 、 急 に 国元 から 帰れ という 電報 を 受け取っ た 。 電報 に は 母 が 病気 だ から と 断っ て あっ た けれども 友達 は それ を 信じ なかっ た 。 友達 は かね て から 国元 に いる 親 たち に 勧 すす ま ない 結婚 を 強 し いら れ て い た 。 彼 は 現代 の 習慣 から いう と 結婚 する に は あまり 年 が 若 過ぎ た 。 それ に 肝心 かんじん の 当人 が 気に入ら なかっ た 。 それで 夏休み に 当然 帰る べき ところ を 、 わざと 避け て 東京 の 近く で 遊ん で い た の で ある 。 彼 は 電報 を 私 に 見せ て どう しよ う と 相談 を し た 。 私 に は どうして いい か 分ら なかっ た 。 けれども 実際 彼 の 母 が 病気 で ある と すれ ば 彼 は 固 もと より 帰る べき はず で あっ た 。 それで 彼 は とうとう 帰る 事 に なっ た 。 せっかく 来 た 私 は 一 人 取り残さ れ た 。
souseki 先生 は さっき 少し 昂奮 こう ふん なさい まし た ね 。 あの 植木 屋 の 庭 で 休ん で いる 時 に 。 私 は 先生 の 昂奮 し た の を 滅多 めった に 見 た 事 が ない ん です が 、 今日 は 珍しい ところ を 拝見 し た よう な 気 が し ます
souseki しかし 先生 が 奥さん を 嫌っ て いらっしゃら ない 事 だけ は 保証 し ます 。 私 は 先生 自身 の 口 から 聞い た 通り を 奥さん に 伝える だけ です 。 先生 は 嘘 うそ を 吐 つ かない 方 かた でしょ う
souseki 二 人 は また だらだら 坂 ざか の 中途 に ある 家 うち の 前 へ 来 た 。 は いる 時 に は 誰 も いる 気色 けしき の 見え なかっ た 縁 えん に 、 お上 かみ さん が 、 十 五 、 六 の 娘 を 相手 に 、 糸巻 へ 糸 を 巻き つけ て い た 。 二 人 は 大きな 金魚鉢 の 横 から 、 どうも お 邪魔 じゃま を し まし た と 挨拶 あいさつ し た 。 お上 さん は いいえ お 構 かま い 申 しも 致し ませ ん で と 礼 を 返し た 後 あと 、 先刻 さっき 小 供 に やっ た 白銅 はくどう の 礼 を 述べ た 。
souseki 子供 で も ある と 好い ん です が ね と 奥さん は 私 の 方 を 向い て いっ た 。 私 は そう です な と 答え た 。 しかし 私 の 心 に は 何 の 同情 も 起ら なかっ た 。 子供 を 持っ た 事 の ない その 時 の 私 は 、 子供 を ただ 蒼 蠅 うる さ いも の の よう に 考え て い た 。
souseki いいえ と 私 は 答え た 。
souseki そう だ なあ と 私 は 答え た 。 私 は こちら から 進ん で そんな 事 を 持ち出す の も 病人 の ため に 好 よ し 悪 あ し だ と 考え て い た 。 二 人 は 決し かね て ついに 伯父 おじ に 相談 を かけ た 。 伯父 も 首 を 傾け た 。
souseki じゃ 先生 が そう 変っ て 行か れる 源 因 げん い ん が ちゃんと 解 わか る べき はず です が ね
souseki また 来 まし た ね と いっ た 。
souseki みんな は いえ ない の よ 。 みんな いう と 叱 しか られる から 。 叱ら れ ない ところ だけ よ
souseki 五 、 六 日 | 経 た っ た 後 のち 、 奥さん は 突然 私 に 向っ て 、 K に あの 事 を 話し た か と 聞く の です 。 私 は まだ 話さ ない と 答え まし た 。 すると なぜ 話さ ない の か と 、 奥さん が 私 を 詰 なじ る の です 。 私 は この 問い の 前 に 固く なり まし た 。 その 時 奥さん が 私 を 驚かし た 言葉 を 、 私 は 今 でも 忘れ ず に 覚え て い ます 。
souseki 母 は どこ まで も 先生 が 私 の ため に 衣食 の 口 を 周旋 し て くれる もの と ばかり 解釈 し て いる らしかっ た 。 私 も あるいは そう か と も 考え た が 、 先生 の 平生 から 推 お し て みる と 、 どうも 変 に 思わ れ た 。 先生 が 口 を 探し て くれる 。 これ は あり 得 う べから ざる 事 の よう に 私 に は 見え た 。
souseki 先生 先生 という の は 一体 | 誰 だれ の 事 だい と 兄 が 聞い た 。
souseki どうも 様子 が 少し 変 だ から なる べく 傍 そば に いる よう に し なくっ ちゃ いけ ない よ と 注意 し た 。
souseki 先生 は なぜ 元 の よう に 書物 に 興味 を もち 得 ない ん です か
souseki 私 は 小石川 こいし か わ へ 引き 移っ て から も 、 当分 この 緊張 し た 気分 に 寛 くつ ろ ぎ を 与える 事 が でき ませ ん でし た 。 私 は 自分 で 自分 が 恥ずかしい ほど 、 きょときょと 周囲 を 見廻 みまわ し て い まし た 。 不思議 に も よく 働く の は 頭 と 眼 だけ で 、 口 の 方 は それ と 反対 に 、 段々 動か なく なっ て 来 まし た 。 私 は 家 うち の もの の 様子 を 猫 の よう に よく 観察 し ながら 、 黙っ て 机 の 前 に 坐 すわ って い まし た 。 時々 は 彼ら に対して 気の毒 だ と 思う ほど 、 私 は 油断 の ない 注意 を 彼ら の 上 に 注 そそ いで い た の です 。 おれ は 物 を 偸 ぬ す ま ない 巾着切 きん ちゃ く きり み た よう な もの だ 、 私 は こう 考え て 、 自分 が 厭 いや に なる 事 さえ あっ た の です 。
souseki ある 日 私 は 神田 かん だ に 用 が あっ て 、 帰り が いつも より ずっと 後 おく れ まし た 。 私 は 急ぎ足 に 門前 まで 来 て 、 格子 こう し を がらり と 開け まし た 。 それ と 同時に 、 私 は お嬢さん の 声 を 聞い た の です 。 声 は 慥 たし かに K の 室 へや から 出 た と 思い まし た 。 玄関 から 真直 まっすぐ に 行け ば 、 茶の間 、 お嬢さん の 部屋 と 二つ 続い て い て 、 それ を 左 へ 折れる と 、 K の 室 、 私 の 室 、 という 間 取 ま どり な の です から 、 どこ で 誰 の 声 が し た くらい は 、 久しく 厄介 やっかい に なっ て いる 私 に は よく 分る の です 。 私 は すぐ 格子 を 締め まし た 。 すると お嬢さん の 声 も すぐ 已 や み まし た 。 私 が 靴 を 脱い で いる うち 、 —— 私 は その 時分 から ハイカラ で 手数 てか ず の かかる 編 上 あみあげ を 穿 は い て い た の です が 、 —— 私 が こごん で その 靴 紐 くつ ひも を 解い て いる うち 、 K の 部屋 で は 誰 の 声 も し ませ ん でし た 。 私 は 変 に 思い まし た 。 ことに よる と 、 私 の 疳 違 かん ちがい かも 知れ ない と 考え た の です 。 しかし 私 が いつも の 通り K の 室 を 抜けよ う として 、 襖 を 開ける と 、 そこ に 二 人 は ちゃんと 坐 すわ って い まし た 。 K は 例 の 通り 今 帰っ た か と いい まし た 。 お嬢さん も お 帰り と 坐っ た まま で 挨拶 し まし た 。 私 に は 気 の せい か その 簡単 な 挨拶 が 少し 硬 かた い よう に 聞こえ まし た 。 どこ か で 自然 を 踏み 外 はず し て いる よう な 調子 として 、 私 の 鼓膜 こ まく に 響い た の です 。 私 は お嬢さん に 、 奥さん は と 尋ね まし た 。 私 の 質問 に は 何 の 意味 も あり ませ ん でし た 。 家 の うち が 平常 より 何だか ひっそり し て い た から 聞い て 見 た だけ の 事 です 。
souseki 私 わたくし は 次 の 日 も 同じ 時刻 に 浜 へ 行っ て 先生 の 顔 を 見 た 。 その 次 の 日 に も また 同じ 事 を 繰り返し た 。 けれども 物 を いい 掛ける 機会 も 、 挨拶 あいさつ を する 場合 も 、 二 人 の 間 に は 起ら なかっ た 。 その 上 先生 の 態度 は むしろ 非 社交 的 で あっ た 。 一定 の 時刻 に 超然 として 来 て 、 また 超然と 帰っ て 行っ た 。 周囲 が いくら 賑 にぎ や か でも 、 それ に は ほとんど 注意 を 払う 様子 が 見え なかっ た 。 最初 いっしょ に 来 た 西洋 人 は その後 ご まるで 姿 を 見せ なかっ た 。 先生 は いつ でも 一 人 で あっ た 。
souseki あの 時 は いよいよ 頭 が 変 に なっ た の か と 思っ て 、 ひやりと し た と 後で 兄 が 私 に いっ た 。 私 わたし も 実は 驚き まし た と 妹 の 夫 も 同感 らしい 言葉 つき で あっ た 。
souseki 先生 は 同じ 言葉 を 二 | 遍 へん 繰り返し た 。 その 言葉 は 森閑 しんかん と し た 昼 の 中 うち に 異様 な 調子 を もっ て 繰り返さ れ た 。 私 は 急 に 何とも 応 こ た え られ なく なっ た 。
souseki 突然 だ が 、 君 の 家 うち に は 財産 が よっぽど ある ん です か
souseki 先生 は 迷惑 そう に 庭 の 方 を 向い た 。 その 庭 に 、 この間 まで 重 そう な 赤い 強い 色 を ぽたぽた 点じ て い た 椿 つば き の 花 は もう 一つ も 見え なかっ た 。 先生 は 座敷 から この 椿 の 花 を よく 眺 な が め る 癖 が あっ た 。
souseki 別 問題 と は 思わ れ ませ ん 。 先生 の 過去 が 生み出し た 思想 だ から 、 私 は 重き を 置く の です 。 二つ の もの を 切り離し たら 、 私 に は ほとんど 価値 の ない もの に なり ます 。 私 は 魂 の 吹き込ま れ て い ない 人形 を 与え られ た だけ で 、 満足 は でき ない の です
souseki 父 の 病気 は 同じ よう な 状態 で 一 週間 以上 つづい た 。 私 わたくし は その間 に 長い 手紙 を 九州 に いる 兄 | 宛 あて で 出し た 。 妹 いも と へ は 母 から 出さ せ た 。 私 は 腹の中 で 、 おそらく これ が 父 の 健康 に関して 二 人 へ やる 最後 の 音信 たより だろ う と 思っ た 。 それで 両方 へ い よい よ という 場合 に は 電報 を 打つ から 出 て 来い という 意味 を 書き込め た 。
souseki 手紙 に は その後 K が どう し て いる か 知らせ て くれ と 書い て あり まし た 。 姉 が 心配 し て いる から 、 なるべく 早く 返事 を 貰 もら い たい という 依頼 も 付け加え て あり まし た 。 K は 寺 を 嗣 つ い だ 兄 より も 、 他家 たけ へ 縁づい た この 姉 を 好い て い まし た 。 彼ら は みんな 一つ 腹 から 生れ た 姉 弟 きょう だい です けれども 、 この 姉 と K と の 間 に は 大分 だいぶ 年歯 と し の 差 が あっ た の です 。 それで K の 小 供 こども の 時分 に は 、 継母 まま は は より も この 姉 の 方 が 、 かえって 本当 の 母 らしく 見え た の でしょ う 。
souseki 私 が 叔父 おじ の 態度 に 心づい た の も 、 全く これ と 同じ なん でしょ う 。 俄然 がぜん として 心づい た の です 。 何 の 予感 も 準備 も なく 、 不意 に 来 た の です 。 不意 に 彼 と 彼 の 家族 が 、 今 まで と は まるで 別物 の よう に 私 の 眼 に 映っ た の です 。 私 は 驚き まし た 。 そうして この まま に し て おい て は 、 自分 の 行先 ゆく さき が どう なる か 分ら ない という 気 に なり まし た 。
souseki まったく 気 の せい だ よ と 母 が いっ た 。 母 の 頭 は 陛下 の 病 や まい と 父 の 病 と を 結び付け て 考え て い た 。 私 に は そう ばかり と も 思え なかっ た 。
souseki しかし これ は ただ 思い出し た ついで に 書い た だけ で 、 実は どう でも 構わ ない 点 です 。 ただ そこ に どう でも よく ない 事 が 一つ あっ た の です 。 茶の間 か 、 さもなければ お嬢さん の 室 へや で 、 突然 男 の 声 が 聞こえる の です 。 その 声 が また 私 の 客 と 違っ て 、 すこぶる 低い の です 。 だから 何 を 話し て いる の か まるで 分ら ない の です 。 そう し て 分ら なけれ ば 分ら ない ほど 、 私 の 神経 に 一種 の 昂奮 こう ふん を 与える の です 。 私 は 坐 すわ って い て 変 に いらいら し 出し ます 。 私 は あれ は 親類 な の だろ う か 、 それとも ただ の 知り合い な の だろ う か と まず 考え て 見る の です 。 それ から 若い 男 だろ う か 年輩 の 人 だろ う か と 思案 し て みる の です 。 坐っ て い て そんな 事 の 知れよ う はず が あり ませ ん 。 そう か と いっ て 、 起 た って 行っ て 障子 しょうじ を 開け て 見る 訳 に は なお いき ませ ん 。 私 の 神経 は 震える と いう より も 、 大きな 波動 を 打っ て 私 を 苦しめ ます 。 私 は 客 の 帰っ た 後 で 、 きっと 忘れ ず に その 人 の 名 を 聞き まし た 。 お嬢さん や 奥さん の 返事 は 、 また 極めて 簡単 でし た 。 私 は 物足りない 顔 を 二 人 に 見せ ながら 、 物 足りる まで 追窮 つい きゅう する 勇気 を もっ て い なかっ た の です 。 権利 は 無論 もっ て い なかっ た の でしょ う 。 私 は 自分 の 品格 を 重んじ なけれ ば なら ない という 教育 から 来 た 自尊心 と 、 現に その 自尊心 を 裏切 うらぎり し て いる 物欲しそう な 顔 付 かお つき と を 同時に 彼ら の 前 に 示す の です 。 彼ら は 笑い まし た 。 それ が 嘲笑 ちょうしょう の 意味 で なくっ て 、 好意 から 来 た もの か 、 また 好意 らしく 見せる つもり な の か 、 私 は 即 坐 に 解釈 の 余地 を 見 出 みい だ し 得 ない ほど 落付 おちつき を 失っ て しまう の です 。 そうして 事 が 済ん だ 後 で 、 いつ まで も 、 馬鹿 に さ れ た の だ 、 馬鹿 に さ れ た ん じゃ なかろ う か と 、 何 遍 なん べ ん も 心 の うち で 繰り返す の です 。
souseki 私 の 旧友 は 私 の 言葉 通り に 取り計らっ て くれ まし た 。 もっとも それ は 私 が 東京 へ 着い て から よほど 経 た っ た 後 のち の 事 です 。 田舎 いなか で 畠 地 はたち など を 売ろ う と し た って 容易 に は 売れ ませ ん し 、 いざ と なる と 足元 を 見 て 踏み倒さ れる 恐れ が ある ので 、 私 の 受け取っ た 金額 は 、 時価 に 比べる と よほど 少ない もの でし た 。 自白 する と 、 私 の 財産 は 自分 が 懐 ふところ に し て 家 を 出 た 若干 の 公債 と 、 後 あと から この 友人 に 送っ て もらっ た 金 だけ な の です 。 親 の 遺産 として は 固 もと より 非常 に 減っ て い た に 相違 あり ませ ん 。 しかも 私 が 積極 的 に 減らし た の で ない から 、 なお 心持 が 悪かっ た の です 。 けれども 学生 として 生活 する に は それ で 充分 以上 でし た 。 実 を いう と 私 は それ から 出る 利子 の 半分 も 使え ませ ん でし た 。 この 余裕 ある 私 の 学生 生活 が 私 を 思い も 寄ら ない 境遇 に 陥 おと し 入れ た の です 。
souseki そんな 風 ふう に 聞こえ まし た か
souseki 先生 の 返事 が 来 た 時 、 私 は ちょっと 驚かさ れ た 。 ことに その 内容 が 特別 の 用件 を 含ん で い なかっ た 時 、 驚かさ れ た 。 先生 は ただ 親切 ずく で 、 返事 を 書い て くれ た ん だ と 私 は 思っ た 。 そう 思う と 、 その 簡単 な 一 本 の 手紙 が 私 に は 大層 な 喜び に なっ た 。 もっとも これ は 私 が 先生 から 受け取っ た 第 一 の 手紙 に は 相違 なかっ た が 。
souseki 私 の 父 が 存生 中 ぞ ん し ょうちゅう に あつめ た 道具 類 は 、 例 の 叔父 おじ の ため に 滅茶滅茶 めちゃめちゃ に さ れ て しまっ た の です が 、 それでも 多少 は 残っ て い まし た 。 私 は 国 を 立つ 時 それ を 中学 の 旧友 に 預かっ て もらい まし た 。 それから その 中 うち で 面白 そう な もの を 四 、 五 | 幅 ふく 裸 に し て 行李 こうり の 底 へ 入れ て 来 まし た 。 私 は 移る や 否 い な や 、 それ を 取り出し て 床 へ 懸け て 楽しむ つもり で い た の です 。 ところが 今 いっ た 琴 と 活花 いけ ば な を 見 た ので 、 急 に 勇気 が なくなっ て しまい まし た 。 後 あと から 聞い て 始め て この 花 が 私 に対する ご馳走 ち そう に 活け られ た の だ という 事 を 知っ た 時 、 私 は 心 の うち で 苦笑 し まし た 。 もっとも 琴 は 前 から そこ に あっ た の です から 、 これ は 置き 所 が ない ため 、 やむをえ ず そのまま に 立て 懸け て あっ た の でしょ う 。
souseki あなた は 何で そう たびたび 私 の よう な もの の 宅 へ やって来る の です か
souseki 私 は そこ に 坐っ て 、 よく 書物 を ひろげ まし た 。 K は 何 も せ ず に 黙っ て いる 方 が 多かっ た の です 。 私 に は それ が 考え に 耽 ふけ って いる の か 、 景色 に 見 惚 みと れ て いる の か 、 もしくは 好き な 想像 を 描 え が い て いる の か 、 全く 解 わか ら なかっ た の です 。 私 は 時々 眼 を 上げ て 、 K に 何 を し て いる の だ と 聞き まし た 。 K は 何 も し て い ない と 一 口 ひとくち 答える だけ でし た 。 私 は 自分 の 傍 そば に こう じっと し て 坐っ て いる もの が 、 K で なくっ て 、 お嬢さん だっ たら さぞ 愉快 だろ う と 思う 事 が よく あり まし た 。 それだけ なら まだ いい の です が 、 時に は K の 方 で も 私 と 同じ よう な 希望 を 抱 い だ い て 岩 の 上 に 坐っ て いる の で は ない かしら と 忽然 こつぜん 疑い 出す の です 。 すると 落ち 付い て そこ に 書物 を ひろげ て いる の が 急 に 厭 に なり ます 。 私 は 不意 に 立ち 上 あ が り ます 。 そうして 遠慮 の ない 大きな 声 を 出し て 怒鳴 どな り ます 。 纏 まと まっ た 詩 だの 歌 だ の を 面白 そう に 吟 ぎん ずる よう な 手緩 てぬる い 事 は でき ない の です 。 ただ 野蛮 人 の ご とく に わめく の です 。 ある 時 私 は 突然 彼 の 襟 頸 え りく び を 後ろ から ぐいと 攫 つか み まし た 。 こうして 海 の 中 へ 突き 落し たら どう する と いっ て K に 聞き まし た 。 K は 動き ませ ん でし た 。 後ろ向き の まま 、 ちょうど 好 い い 、 やっ て くれ と 答え まし た 。 私 は すぐ 首筋 を 抑 お さ え た 手 を 放し まし た 。
souseki でも どの くらい あっ たら 先生 の よう に し て い られる か 、 宅 うち へ 帰っ て 一つ 父 に 談判 する 時 の 参考 に し ます から 聞かし て 下さい
souseki いや 考え た ん じゃ ない 。 やっ た ん です 。 やっ た 後 で 驚い た ん です 。 そうして 非常 に 怖 こわ く なっ た ん です
souseki その 時 私 は ただ 一 図 いちず に 波 を 見 て い まし た 。 そうして その 波 の 中 に 動く 少し 紫 がかっ た 鯛 の 色 を 、 面白い 現象 の 一つ として 飽か ず 眺め まし た 。 しかし K は 私 ほど それ に 興味 を もち 得 なかっ た もの と みえ ます 。 彼 は 鯛 より も かえって 日蓮 の 方 を 頭 の 中 で 想像 し て い た らしい の です 。 ちょうど そこ に 誕生寺 たんじょう じ という 寺 が あり まし た 。 日蓮 の 生れ た 村 だ から 誕生寺 と で も 名 を 付け た もの でしょ う 、 立派 な 伽藍 がらん でし た 。 K は その 寺 に 行っ て 住持 じゅう じ に 会っ て みる と いい 出し まし た 。 実 を いう と 、 我々 は ずいぶん 変 な 服装 なり を し て い た の です 。 ことに K は 風 の ため に 帽子 を 海 に 吹き飛ばさ れ た 結果 、 菅笠 すげ が さ を 買っ て 被 かぶ って い まし た 。 着物 は 固 もと より 双方 とも 垢 あか じみ た 上 に 汗 で 臭 く さ く なっ て い まし た 。 私 は 坊さん など に 会う の は 止 よ そう と いい まし た 。 K は 強情 ご うじ ょう だ から 聞き ませ ん 。 厭 いや なら 私 だけ 外 に 待っ て いろ という の です 。 私 は 仕方 が ない から いっしょ に 玄関 に かかり まし た が 、 心 の うち で は きっと 断ら れる に 違い ない と 思っ て い まし た 。 ところが 坊さん という もの は 案外 | 丁寧 ていねい な もの で 、 広い 立派 な 座敷 へ 私 たち を通して 、 すぐ 会っ て くれ まし た 。 その 時分 の 私 は K と 大分 だいぶ 考え が 違っ て い まし た から 、 坊さん と K の 談話 に それほど 耳 を 傾ける 気 も 起り ませ ん でし た が 、 K は しきりに 日蓮 の 事 を 聞い て い た よう です 。 日蓮 は 草 日蓮 そう に ちれ ん と いわ れる くらい で 、 草書 そう しょ が 大変 上手 で あっ た と 坊さん が いっ た 時 、 字 の 拙 まず い K は 、 何だ 下ら ない という 顔 を し た の を 私 は まだ 覚え て い ます 。 K は そんな 事 より も 、 もっと 深い 意味 の 日蓮 が 知り たかっ た の でしょ う 。 坊さん が その 点 で K を 満足 さ せ た か どう か は 疑問 です が 、 彼 は 寺 の 境内 けい だい を 出る と 、 しきりに 私 に 向っ て 日蓮 の 事 を 云々 うんぬん し 出し まし た 。 私 は 暑く て 草 臥 く たび れ て 、 それどころ で は あり ませ ん でし た から 、 ただ 口 の 先 で 好 い い 加減 な 挨拶 あいさつ を し て い まし た 。 それ も 面倒 に なっ て しまいに は 全く 黙っ て しまっ た の です 。
souseki 先生 に 聞い て も 教え て 下さら ない から
souseki 私 の 疑惑 は まだ その 上 に も あっ た 。 先生 の 人間 に対する この 覚悟 は どこ から 来る の だろ う か 。 ただ 冷たい 眼 で 自分 を 内省 し たり 現代 を 観察 し たり し た 結果 な の だろ う か 。 先生 は 坐 すわ って 考える 質 たち の 人 で あっ た 。 先生 の 頭 さえ あれ ば 、 こういう 態度 は 坐っ て 世の中 を 考え て い て も 自然 と 出 て 来る もの だろ う か 。 私 に は そう ばかり と は 思え なかっ た 。 先生 の 覚悟 は 生き た 覚悟 らしかっ た 。 火 に 焼け て 冷却 し 切っ た 石造 せき ぞう 家屋 の 輪廓 りん かく と は 違っ て い た 。 私 の 眼 に 映ずる 先生 は たしかに 思想家 で あっ た 。 けれども その 思想家 の 纏 まと め 上げ た 主義 の 裏 に は 、 強い 事実 が 織り込ま れ て いる らしかっ た 。 自分 と 切り離さ れ た 他人 の 事実 で なくっ て 、 自分 自身 が 痛切 に 味わっ た 事実 、 血 が 熱く なっ たり 脈 が 止まっ たり する ほど の 事実 が 、 畳み込ま れ て いる らしかっ た 。
souseki 自分 で 病気 に 罹 かか って い ながら 、 気 が 付か ない で 平気 で いる の が あの 病 の 特色 です 。 私 の 知っ た ある 士官 しかん は 、 とうとう それ で やら れ た が 、 全く 嘘 うそ の よう な 死に 方 を し た ん です よ 。 何しろ 傍 そば に 寝 て い た 細君 さ いく ん が 看病 を する 暇 も なんにも ない くらい な ん です から ね 。 夜中 に ちょっと 苦しい と いっ て 、 細君 を 起し たぎり 、 翌 あく る 朝 は もう 死ん で い た ん です 。 しかも 細君 は 夫 が 寝 て いる と ばかり 思っ て たん だって いう ん だ から
souseki 私 の すべて を 聞い た 奥さん は 、 はたして 自分 の 直覚 が 的中 し た と いわ ない ばかり の 顔 を し 出し まし た 。 それ から は 私 を 自分 の 親戚 みよ り に 当る 若い もの か 何 か を 取り扱う よう に 待遇 する の です 。 私 は 腹 も 立ち ませ ん でし た 。 むしろ 愉快 に 感じ た くらい です 。 ところが その うち に 私 の 猜疑 心 さいぎ しん が また 起っ て 来 まし た 。
souseki 先生 は 笑い ながら どうも ご苦労さま 、 泥棒 は 来 ませ ん でし た か と 私 に 聞い た 。 それから 来 ない んで 張 合 はりあい が 抜け やし ませ ん か と いっ た 。
souseki 聞こえ まし た 。 恋 の 満足 を 味わっ て いる 人 は もっと 暖かい 声 を 出す もの です 。 しかし … … しかし 君 、 恋 は 罪悪 です よ 。 解 わか って い ます か
souseki 君 、 今夜 は どうか し て い ます ね と 先生 の 方 から いい 出し た 。 実は 私 も 少し 変 な の です よ 。 君 に 分り ます か
souseki あんまり 軽はずみ を し て また 逆 回 ぶり か え す と いけ ませ ん よ
souseki おれ に そんな 事 が できる もの か と 兄 は 一 口 ひとくち に 斥 しり ぞ けた 。 兄 の 腹の中 に は 、 世の中 で これから 仕事 を しよ う という 気 が 充 み ち 満 み ち て い た 。
souseki 今 | 斥候 長 せっ こう ちょう に なっ てる ところ な ん だ よ
souseki 私 は 先生 と いっしょ に 、 郊外 の 植木 屋 の 広い 庭 の 奥 で 話し た 、 あの 躑躅 つつじ の 咲い て いる 五月 の 初め を 思い出し た 。 あの 時 帰り 途 みち に 、 先生 が 昂奮 こう ふん し た 語気 で 、 私 に 物語っ た 強い 言葉 を 、 再び 耳 の 底 で 繰り返し た 。 それ は 強い ばかり で なく 、 むしろ 凄 すご い 言葉 で あっ た 。 けれども 事実 を 知ら ない 私 に は 同時に 徹底 し ない 言葉 でも あっ た 。
souseki 奥さん の 言葉 は 少し 手 痛 てひど かっ た 。 しかし その 言葉 の 耳 障 み み ざわり から いう と 、 決して 猛烈 な もの で は なかっ た 。 自分 に 頭脳 の ある 事 を 相手 に 認め させ て 、 そこ に 一種 の 誇り を 見 出 みい だ す ほど に 奥さん は 現代 的 で なかっ た 。 奥さん は それ より もっと 底 の 方 に 沈ん だ 心 を 大事 に し て いる らしく 見え た 。
souseki あなた どう 思っ て ? と 聞い た 。 私 から ああなっ た の か 、 それとも あなた の いう 人世 観 じん せいかん とか 何とか いう もの から 、 ああなっ た の か 。 隠さ ず いっ て 頂戴 ちょうだい
souseki ありがとう 。 脂 や に が こびり着い て やし ませ ん か
souseki 私 は どこ でも 構わ なかっ た 。 ただ 先生 を 伴 つ れ て 郊外 へ 出 たかっ た 。
souseki 兄 と 前後 し て 着い た 妹 いも と の 夫 の 意見 は 、 我々 より も よほど 楽観 的 で あっ た 。 父 は 彼 に 向かっ て 妹 の 事 を あれこれ と 尋ね て い た 。 身体 から だ が 身体 だ から むやみ に 汽車 に なんぞ 乗っ て 揺 ゆ れ ない 方 が 好い 。 無理 を し て 見舞 に 来ら れ たり する と 、 かえって こっち が 心配 だ から と いっ て い た 。 なに 今 に 治っ たら 赤ん坊 の 顔 で も 見 に 、 久しぶり に こっち から 出掛ける から 差 支 さ し つ か え ない と も いっ て い た 。
souseki いいえ 、 そんな 事 は 何 も おっしゃい ませ ん
souseki 私 が こう いっ た 時 、 彼 は ただ 自分 の 修養 が 足り ない から 、 他 ひと に は そう 見える かも 知れ ない と 答え た だけ で 、 一向 いっこう 私 を 反駁 はんばく しよ う と し ませ ん でし た 。 私 は 張合い が 抜け た と いう より も 、 かえって 気の毒 に なり まし た 。 私 は すぐ 議論 を そこで 切り上げ まし た 。 彼 の 調子 も だんだん 沈ん で 来 まし た 。 もし 私 が 彼 の 知っ て いる 通り 昔 の 人 を 知る なら ば 、 そんな 攻撃 は し ない だろ う と いっ て 悵然 ちょうぜ ん と し て い まし た 。 K の 口 に し た 昔 の 人 と は 、 無論 英雄 で も なけれ ば 豪傑 で も ない の です 。 霊 の ため に 肉 を 虐 しい た げ たり 、 道 の ため に 体 たい を 鞭 むち うっ たり し た いわゆる 難行苦行 なん ぎょ うく ぎょ う の 人 を 指す の です 。 K は 私 に 、 彼 が どの くらい その ため に 苦しん で いる か 解 わか ら ない の が 、 いかにも 残念 だ と 明言 し まし た 。
souseki 貰 もらい ッ 子 じゃ 、 ねえ あなた と 奥さん は また 私 の 方 を 向い た 。
souseki 私 は 兄 に 向かっ て 、 自分 の 使っ て いる イゴイスト という 言葉 の 意味 が よく 解 わか る か と 聞き返し て やり たかっ た 。
souseki 二 人 が 帰る とき 歩き ながら の 沈黙 が 一 | 丁 ちょう も 二 丁 も つづい た 。 その後 あと で 突然 先生 が 口 を 利 き き 出し た 。
souseki そう こう し て いる うち に 、 私 は また 奥さん と 差し 向い で 話 を し なけれ ば なら ない 時機 が 来 た 。 その 頃 ころ は 日 の 詰 つま って 行く せわ し ない 秋 に 、 誰 も 注意 を 惹 ひ かれる 肌寒 はださむ の 季節 で あっ た 。 先生 の 附近 ふきん で 盗難 に 罹 かか っ た もの が 三 、 四 日 続い て 出 た 。 盗難 は いずれ も 宵の口 で あっ た 。 大した もの を 持っ て 行か れ た 家 うち は ほとんど なかっ た けれども 、 はいら れ た 所 で は 必ず 何 か 取ら れ た 。 奥さん は 気味 を わるく し た 。 そこ へ 先生 が ある 晩 家 を 空 あ け なけれ ば なら ない 事情 が でき て き た 。 先生 と 同郷 の 友人 で 地方 の 病院 に 奉職 し て いる もの が 上京 し た ため 、 先生 は 外 ほか の 二 、 三 名 と共に 、 ある 所 で その 友人 に 飯 めし を 食わせ なけれ ば なら なく なっ た 。 先生 は 訳 を 話し て 、 私 に 帰っ て くる 間 まで の 留守番 を 頼ん だ 。 私 は すぐ 引き受け た 。
souseki 奥さん は 笑い ながら 先生 の 顔 を 見 た 。
souseki 私 わたくし は 退屈 な 父 の 相手 として よく 将 碁盤 し ょうぎばん に 向かっ た 。 二 人 とも 無精 な 性質 たち な ので 、 炬燵 こたつ に あたっ た まま 、 盤 を 櫓 や ぐら の 上 へ 載 の せ て 、 駒 こま を 動かす たび に 、 わざわざ 手 を 掛蒲団 かけ ぶと ん の 下 から 出す よう な 事 を し た 。 時々 | 持駒 もち ごま を 失 な くし て 、 次 の 勝負 の 来る まで 双方 と も 知ら ず に い たり し た 。 それ を 母 が 灰 の 中 から 見付 みつ け 出し て 、 火箸 ひ ば し で 挟 はさ み 上げる という 滑稽 こっけい も あっ た 。
souseki 少し 午 眠 ひる ね でも おし よ 。 お前 も さぞ 草 臥 く たび れる だろ う
souseki それで なぜ 活動 が でき ない ん でしょ う
souseki 私 は すぐ 厭 いや に なり まし た 。 しかし K は 好 い いとも 悪い とも いい ませ ん 。 少なくとも 顔 付 かお つき だけ は 平気 な もの でし た 。 その くせ 彼 は 海 へ 入る たんび に どこ か に 怪我 けが を し ない 事 は なかっ た の です 。 私 は とうとう 彼 を 説き伏せ て 、 そこ から 富浦 と みうら に 行き まし た 。 富浦 から また 那古 なこ に 移り まし た 。 すべて この 沿岸 は その 時分 から 重 おも に 学生 の 集まる 所 でし た から 、 どこ でも 我々 に は ちょうど 手頃 てごろ の 海水浴 場 だっ た の です 。 K と 私 は よく 海岸 の 岩 の 上 に 坐 すわ って 、 遠い 海 の 色 や 、 近い 水 の 底 を 眺 な が め まし た 。 岩 の 上 から 見 下 み おろ す 水 は 、 また 特別 に 綺麗 きれい な もの でし た 。 赤い 色 だの 藍 あい の 色 だの 、 普通 | 市場 し じ ょう に 上 のぼ ら ない よう な 色 を し た 小 魚 こう お が 、 透き通る 波 の 中 を あちら こちら と 泳い で いる の が 鮮やか に 指ささ れ まし た 。
souseki 私 は 自分 の 部屋 に は いっ て 、 そこ に 放り出さ れ た 行李 を 眺め た 。 行李 は い つ 持ち出し て も 差 支 さ し つ か え ない よう に 、 堅く 括 くく られ た まま で あっ た 。 私 は ぼんやり その 前 に 立っ て 、 また 縄 を 解こ う か と 考え た 。
souseki 奥さん の この 態度 が 自然 私 の 気分 に 影響 し て 来 まし た 。 しばらく する うち に 、 私 の 眼 は もと ほど き ょろ 付か なく なり まし た 。 自分 の 心 が 自分 の 坐 すわ って いる 所 に 、 ちゃんと 落ち 付い て いる よう な 気 に も なれ まし た 。 要するに 奥さん 始め 家 うち の もの が 、 僻 ひ が ん だ 私 の 眼 や 疑い深い 私 の 様子 に 、 てんから 取り合わ なかっ た の が 、 私 に 大きな 幸福 を 与え た の でしょ う 。 私 の 神経 は 相手 から 照り返し て 来る 反射 の ない ため に 段々 静まり まし た 。
souseki K の 果断 に 富ん だ 性格 は 私 わたくし に よく 知れ て い まし た 。 彼 の この 事件 について のみ 優柔 ゆう じゅう な 訳 も 私 に は ちゃんと 呑 の み 込め て い た の です 。 つまり 私 は 一般 を 心得 た 上 で 、 例外 の 場合 を しっかり 攫 つら まえ た つもり で 得意 だっ た の です 。 ところが 覚悟 という 彼 の 言葉 を 、 頭 の なか で 何 遍 なん べ ん も 咀嚼 そしゃく し て いる うち に 、 私 の 得意 は だんだん 色 を 失っ て 、 しまいに は ぐらぐら 揺 う ご き 始める よう に なり まし た 。 私 は この 場合 も あるいは 彼 にとって 例外 で ない の かも 知れ ない と 思い出し た の です 。 すべて の 疑惑 、 煩悶 はんもん 、 懊悩 おうのう 、 を 一 度 に 解決 する 最後 の 手段 を 、 彼 は 胸 の なか に 畳 たた み 込ん で いる の で は なかろ うかと 疑 うたぐ り 始め た の です 。 そうした 新しい 光 で 覚悟 の 二 字 を 眺 な が め 返し て み た 私 は 、 はっと 驚き まし た 。 その 時 の 私 が もし この 驚き を もっ て 、 もう 一 返 いっぺん 彼 の 口 に し た 覚悟 の 内容 を 公平 に 見廻 みまわ し たら ば 、 まだ よかっ た かも 知れ ませ ん 。 悲しい 事 に 私 は 片 眼 めっかち でし た 。 私 は ただ K が お嬢さん に対して 進ん で 行く という 意味 に その 言葉 を 解釈 し まし た 。 果断 に 富ん だ 彼 の 性格 が 、 恋 の 方面 に 発揮 さ れる の が すなわち 彼 の 覚悟 だろ う と 一 図 いちず に 思い込ん で しまっ た の です 。
souseki 妻 が 考え て いる よう な 人間 なら 、 私 だって こんなに 苦しん で いや し ない
souseki 一 年 | 経 た って も K を 忘れる 事 の でき なかっ た 私 の 心 は 常に 不安 でし た 。 私 は この 不安 を 駆逐 くちく する ため に 書物 に 溺 お ぼ れよ う と 力 つと め まし た 。 私 は 猛烈 な 勢 いきおい をもって 勉強 し 始め た の です 。 そうして その 結果 を 世の中 に 公 おお やけ に する 日 の 来る の を 待ち まし た 。 けれども 無理 に 目的 を 拵 こし ら え て 、 無理 に その 目的 の 達せ られる 日 を 待つ の は 嘘 うそ です から 不愉快 です 。 私 は どうしても 書物 の なか に 心 を 埋 うず め て い られ なく なり まし た 。 私 は また 腕組み を し て 世の中 を 眺 な が め だし た の です 。
souseki 私 は 我 が を 張る 訳 に も 行か なかっ た 。 どう でも 二 人 の 都合 の 好 い い よう に し たら と 思い出し た 。
souseki もう 遅い から 早く 帰り たまえ 。 私 も 早く 帰っ て やる ん だ から 、 妻 君 さ いく ん の ため に
souseki ある 日 私 は 久しぶり に 学校 の 図書館 に 入り まし た 。 私 は 広い 机 の 片隅 で 窓 から 射す 光線 を 半身 に 受け ながら 、 新着 の 外国 雑誌 を 、 あちら こちら と 引 ひ っ 繰 く り 返し て 見 て い まし た 。 私 は 担任 教師 から 専攻 の 学科 に関して 、 次 の 週 まで に ある 事項 を 調べ て 来い と 命ぜ られ た の です 。 しかし 私 に 必要 な 事柄 が なかなか 見付から ない ので 、 私 は 二 度 も 三 度 も 雑誌 を 借り 替え なけれ ば なり ませ ん でし た 。 最後 に 私 は やっと 自分 に 必要 な 論文 を 探し出し て 、 一心に それ を 読み出し まし た 。 すると 突然 幅 の 広い 机 の 向う側 から 小さな 声 で 私 の 名 を 呼ぶ もの が あり ます 。 私 は ふと 眼 を 上げ て そこ に 立っ て いる K を 見 まし た 。 K は その 上半身 を 机 の 上 に 折り曲げる よう に し て 、 彼 の 顔 を 私 に 近付け まし た 。 ご 承知 の 通り 図書館 で は 他 ほか の 人 の 邪魔 に なる よう な 大きな 声 で 話 を する 訳 に ゆか ない の です から 、 K の この 所作 しょ さ は 誰 で も やる 普通 の 事 な の です が 、 私 は その 時 に 限っ て 、 一種 変 な 心持 が し まし た 。
souseki 父 は 医者 から 安臥 あんが を 命ぜ られ て 以来 、 両 便 と も 寝 た まま 他 ひと の 手 で 始末 し て もらっ て い た 。 潔癖 な 父 は 、 最初 の 間 こそ 甚 はな は だ し く それ を 忌 い み 嫌っ た が 、 身体 から だ が 利 き か ない ので 、 やむを得ず いやいや 床 とこ の 上 で 用 を 足し た 。 それ が 病気 の 加減 で 頭 が だんだん 鈍く なる の か 何 だ か 、 日 を 経 ふ る に従って 、 無精 な 排泄 はいせつ を 意 と し ない よう に なっ た 。 たま に は 蒲団 ふとん や 敷布 を 汚し て 、 傍 はた の もの が 眉 まゆ を 寄せる のに 、 当人 は かえって 平気 で い たり し た 。 もっとも 尿 の 量 は 病気 の 性質 として 、 極めて 少なく なっ た 。 医者 は それ を 苦 に し た 。 食欲 も 次第に 衰え た 。 たまに 何 か 欲し がっ て も 、 舌 が 欲し がる だけ で 、 咽喉 のど から 下 へ は ごく 僅 わずか しか 通ら なかっ た 。 好き な 新聞 も 手 に 取る 気力 が なくなっ た 。 枕 まくら の 傍 そば に ある 老眼鏡 ろう がん きょう は 、 いつ まで も 黒い 鞘 さや に 納め られ た まま で あっ た 。 子供 の 時分 から 仲 の 好かっ た 作 さく さん という 今 で は 一 | 里 り ばかり 隔たっ た 所 に 住ん で いる 人 が 見舞 に 来 た 時 、 父 は ああ 作 さん か と いっ て 、 どんより し た 眼 を 作 さん の 方 に 向け た 。
souseki 亡くなら れ た 日 が です か
souseki 先生 の この 問い は 全く 突然 で あっ た 。 しかも 先生 は 私 が この 問い に対して 答え られ ない という 事 も よく 承知 し て い た 。 私 は しばらく 返事 を し なかっ た 。 すると 先生 は 始め て 気 が 付い た よう に こう いっ た 。
souseki 母 は 失望 し て いい ところ に かえって 頼み を 置い た 。 その くせ 病気 の 時 に しか 使わ ない 渇く という 昔 風 の 言葉 を 、 何 でも 食べ た がる 意味 に 用い て い た 。
souseki 奥さん は 心得 の ある 人 でし た から 、 わざと 私 を そんな 風 ふう に 取り扱っ て くれ た もの と も 思わ れ ます し 、 また 自分 で 公言 する ごとく 、 実際 私 を 鷹揚 おうよう だ と 観察 し て い た の かも 知れ ませ ん 。 私 の こせつき 方 は 頭 の 中 の 現象 で 、 それほど 外 へ 出 なかっ た よう に も 考え られ ます から 、 あるいは 奥さん の 方 で 胡 魔 化 ごま か さ れ て い た の かも 解 わか り ませ ん 。
souseki 先生 帽子 が 落ち まし た
souseki 旨 うま く は ない が 、 別に 嫌 き ら い な 人 も ない だろ う
souseki 私 は その 卓上 で 奥さん から その 日 いつも の 時刻 に 肴 屋 さかな や が 来 なかっ た ので 、 私 たち に 食わ せる もの を 買い に 町 へ 行か なけれ ば なら なかっ た の だ という 説明 を 聞かさ れ まし た 。 なるほど 客 を 置い て いる 以上 、 それ も もっとも な 事 だ と 私 が 考え た 時 、 お嬢さん は 私 の 顔 を 見 て また 笑い 出し まし た 。 しかし 今度 は 奥さん に 叱 しか られ て すぐ 已 や め まし た 。
souseki かつて は その 人 の 膝 ひざ の 前 に 跪 ひざ まず い た という 記憶 が 、 今度 は その 人 の 頭 の 上 に 足 を 載 の せ させよ う と する の です 。 私 は 未来 の 侮辱 を 受け ない ため に 、 今 の 尊敬 を 斥 しり ぞ けたい と 思う の です 。 私 は 今 より 一層 | 淋 さび し い 未来 の 私 を 我慢 する 代り に 、 淋しい 今 の 私 を 我慢 し たい の です 。 自由 と 独立 と 己 おの れ と に 充 み ち た 現代 に 生れ た 我々 は 、 その 犠牲 として みんな この 淋し み を 味わわ なく て は なら ない でしょ う
souseki こんな 言葉 を ひょいひょい 出し た 。 母 は 気味 を 悪 がっ た 。 なるべく みんな を 枕元 まくら もと へ 集め て おき た がっ た 。 気 の たしか な 時 は 頻 しき り に 淋 さび し がる 病人 に も それ が 希望 らしく 見え た 。 ことに 室 へや の 中 うち を 見廻 みまわ し て 母 の 影 が 見え ない と 、 父 は 必ず お 光 みつ は と 聞い た 。 聞か ない で も 、 眼 が それ を 物語っ て い た 。 私 わたくし は よく 起 た って 母 を 呼び に 行っ た 。 何 か ご用 です か と 、 母 が 仕掛 しか けた 用 を そのまま に し て おい て 病室 へ 来る と 、 父 は ただ 母 の 顔 を 見詰める だけ で 何 も いわ ない 事 が あっ た 。 そう か と 思う と 、 まるで 懸け離れ た 話 を し た 。 突然 お 光 お前 まえ に も 色々 世話 に なっ た ね など と 優 や さ し い 言葉 を 出す 時 も あっ た 。 母 は そういう 言葉 の 前 に きっと 涙ぐん だ 。 そうした 後 で は また きっと 丈夫 で あっ た 昔 の 父 を その 対照 として 想 おも い 出す らしかっ た 。
souseki 父 は 自分 の 眼 の 前 に 薄暗く 映る 死 の 影 を 眺め ながら 、 まだ 遺言 ゆい ご ん らしい もの を 口 に 出さ なかっ た 。
souseki 父 は 口 で は こう いっ た 。 こう いっ た ばかり で なく 、 今 まで 敷い て い た 床 とこ を 上げ させ て 、 いつも の よう な 元気 を 示し た 。
souseki 書生 時代 から 先生 を 知っ て いらっしゃっ た ん です か
souseki 役に立た ない 手紙 を 何 通 書こ う と 、 それ が 母 の 慰安 に なる なら 、 手数 を 厭 いと う よう な 私 で は なかっ た 。 けれども こういう 用件 で 先生 に せまる の は 私 の 苦痛 で あっ た 。 私 は 父 に 叱 しか られ たり 、 母 の 機嫌 を 損じ たり する より も 、 先生 から 見下げ られる の を 遥 はる か に 恐れ て い た 。 あの 依頼 に対して 今 まで 返事 の 貰 もら え ない の も 、 あるいは そうした 訳 から じゃ ない かしら という 邪推 も あっ た 。
souseki 私 は 当然 自分 の 心 を K に 打ち明ける べき はず だ と 思い まし た 。 しかし それ に は もう 時機 が 後 おく れ て しまっ た という 気 も 起り まし た 。 なぜ 先刻 さっき K の 言葉 を 遮 さえぎ って 、 こっち から 逆襲 し なかっ た の か 、 そこ が 非常 な 手 落 て ぬ か り の よう に 見え て 来 まし た 。 せめて K の 後 あと に 続い て 、 自分 は 自分 の 思う 通り を その 場 で 話し て しまっ たら 、 まだ 好かっ た ろう に と も 考え まし た 。 K の 自白 に 一段落 が 付い た 今 と なっ て 、 こっち から また 同じ 事 を 切り出す の は 、 どう 思案 し て も 変 でし た 。 私 は この 不自然 に 打ち勝つ 方法 を 知ら なかっ た の です 。 私 の 頭 は 悔恨 に 揺 ゆ られ て ぐらぐら し まし た 。
souseki 同時に 私 は 黙っ て 家 うち の もの の 様子 を 観察 し て 見 まし た 。 しかし 奥さん の 態度 に も お嬢さん の 素 振 そ ぶり に も 、 別に 平生 へい ぜ い と 変っ た 点 は あり ませ ん でし た 。 K の 自白 以前 と 自白 以後 と で 、 彼ら の 挙動 に これ という 差違 が 生じ ない なら ば 、 彼 の 自白 は 単に 私 だけ に 限ら れ た 自白 で 、 肝心 かんじん の 本人 に も 、 また その 監督 者 たる 奥さん に も 、 まだ 通じ て い ない の は 慥 たし か でし た 。 そう 考え た 時 私 は 少し 安心 し まし た 。 それで 無理 に 機会 を 拵 こし ら え て 、 わざとらしく 話 を 持ち出す より は 、 自然 の 与え て くれる もの を 取り逃さ ない よう に する 方 が 好かろ う と 思っ て 、 例 の 問題 に は しばらく 手 を 着け ず に そっと し て おく 事 に し まし た 。
souseki K の 生れ た 家 も 相応 に 暮らし て い た の です 。 しかし 次男 を 東京 へ 修業 に 出す ほど の 余力 が あっ た か どうか 知り ませ ん 。 また 修業 に 出 られる 便宜 が ある ので 、 養子 の 相談 が 纏 まと まっ た もの か どう か 、 そこ も 私 に は 分り ませ ん 。 とにかく K は 医者 の 家 うち へ 養子 に 行っ た の です 。 それ は 私 たち が まだ 中学 に いる 時 の 事 でし た 。 私 は 教場 きょうじ ょう で 先生 が 名簿 を 呼ぶ 時 に 、 K の 姓 が 急 に 変っ て い た ので 驚い た の を 今 でも 記憶 し て い ます 。
souseki 私 は その 晩 先生 と 奥さん の 間 に 起っ た 疑問 を ひとり 口 の 内 で 繰り返し て み た 。 そうして この 疑問 に は 誰 も 自信 を もっ て 答える 事 が でき ない の だ と 思っ た 。 しかし どっち が 先 へ 死ぬ と 判然 はっきり 分っ て い た なら ば 、 先生 は どう する だろ う 。 奥さん は どう する だろ う 。 先生 も 奥さん も 、 今 の よう な 態度 で いる より 外 ほか に 仕方 が ない だろ う と 思っ た 。 ( 死 に 近づき つつ ある 父 を 国元 に 控え ながら 、 この 私 が どう する 事 も でき ない よう に ) 。 私 は 人間 を 果敢 はか ない もの に 観 じ た 。 人間 の どう する 事 も でき ない 持っ て 生れ た 軽薄 を 、 果敢ない もの に 観 じ た 。
souseki 私 は こういう 覚悟 を もっ て いる 先生 に対して 、 いう べき 言葉 を 知ら なかっ た 。
souseki 私 は 他 ひと に 欺 あ ざむ かれ た の です 。 しかも 血 の つづい た 親戚 しん せき の もの から 欺か れ た の です 。 私 は 決して それ を 忘れ ない の です 。 私 の 父 の 前 に は 善人 で あっ た らしい 彼ら は 、 父 の 死ぬ や 否 い な や 許し がたい 不徳義 漢 に 変っ た の です 。 私 は 彼ら から 受け た 屈辱 と 損害 を 小 供 こども の 時 から 今日 きょう まで 背負 しょ わ さ れ て いる 。 恐らく 死ぬ まで 背負わ さ れ 通し でしょ う 。 私 は 死ぬ まで それ を 忘れる 事 が でき ない ん だ から 。 しかし 私 は まだ 復讐 ふくしゅう を し ず に いる 。 考える と 私 は 個人 に対する 復讐 以上 の 事 を 現に やっ て いる ん だ 。 私 は 彼ら を 憎む ばかり じゃ ない 、 彼ら が 代表 し て いる 人間 という もの を 、 一般 に 憎む 事 を 覚え た の だ 。 私 は それ で 沢山 だ と 思う
souseki 先生 の 話 の うち で ただ 一つ 底 まで 聞き たかっ た の は 、 人間 が いざ という 間際 に 、 誰 でも 悪人 に なる という 言葉 の 意味 で あっ た 。 単なる 言葉 として は 、 これ だけ でも 私 に 解 わか ら ない 事 は なかっ た 。 しかし 私 は この 句 について もっと 知り たかっ た 。
souseki 彼 は やがて 自分 の 傍 わき を 顧み て 、 そこ に こごん で いる 日本人 に 、 一言 ひとこと 二言 ふた こと 何 なに か いっ た 。 その 日本人 は 砂 の 上 に 落ち た 手拭 て ぬぐい を 拾い上げ て いる ところ で あっ た が 、 それ を 取り上げる や 否 や 、 すぐ 頭 を 包ん で 、 海 の 方 へ 歩き 出し た 。 その 人 が すなわち 先生 で あっ た 。
souseki 私 の 亡友 に対する こうした 感じ は いつ まで も 続き まし た 。 実は 私 も 初め から それ を 恐れ て い た の です 。 年来 の 希望 で あっ た 結婚 すら 、 不安 の うち に 式 を 挙げ た と いえ ば いえ ない 事 も ない でしょ う 。 しかし 自分 で 自分 の 先 が 見え ない 人間 の 事 です から 、 ことに よる と あるいは これ が 私 の 心持 を 一転 し て 新しい 生涯 に 入 はい る 端緒 いと くち に なる かも 知れ ない と も 思っ た の です 。 ところが いよいよ 夫 として 朝夕 | 妻 さい と 顔 を 合せ て みる と 、 私 の 果敢 はか ない 希望 は 手厳しい 現実 の ため に 脆 もろ くも 破壊 さ れ て しまい まし た 。 私 は 妻 と 顔 を 合せ て いる うち に 、 卒然 そつ ぜん K に 脅 おび や かさ れる の です 。 つまり 妻 が 中間 に 立っ て 、 K と 私 を どこ まで も 結び付け て 離さ ない よう に する の です 。 妻 の どこ に も 不足 を 感じ ない 私 は 、 ただ この 一 点 において 彼女 を 遠ざけ た がり まし た 。 すると 女 の 胸 に は すぐ それ が 映 うつ り ます 。 映る けれども 、 理由 は 解 わか ら ない の です 。 私 は 時々 妻 から なぜ そんなに 考え て いる の だ とか 、 何 か 気に入ら ない 事 が ある の だろ う とかいう 詰問 きつ もん を 受け まし た 。 笑っ て 済ませる 時 は それ で 差 支 さ し つ か え ない の です が 、 時に よる と 、 妻 の 癇 かん も 高 こう じ て 来 ます 。 しまいに は あなた は 私 を 嫌っ て いらっしゃる ん でしょ う とか 、 何でも 私 に 隠し て いらっしゃる 事 が ある に 違い ない とかいう 怨言 えん げん も 聞か なく て は なり ませ ん 。 私 は その たび に 苦しみ まし た 。
souseki 翌日 よく じ つ に なる と 父 は 思っ た より 元気 が 好 よ かっ た 。 留 と め る の も 聞か ず に 歩い て 便所 へ 行っ たり し た 。
souseki 父 は こう も いっ た 。 私 は それでも まだ 黙っ て い た 。
souseki 私 は 緊張 し て 唾液 つば き を 呑 の み 込ん だ 。
souseki その 時 の 私 わたくし は すでに 大学生 で あっ た 。 始めて 先生 の 宅 うち へ 来 た 頃 ころ から 見る と ずっと 成人 し た 気 で い た 。 奥さん とも 大分 だいぶ 懇意 に なっ た 後 のち で あっ た 。 私 は 奥さん に対して 何 の 窮屈 も 感じ なかっ た 。 差 向 さ しむ か いで 色々 の 話 を し た 。 しかし それ は 特色 の ない ただ の 談話 だ から 、 今 で は まるで 忘れ て しまっ た 。 その うち で たった 一つ 私 の 耳 に 留まっ た もの が ある 。 しかし それ を 話す 前 に 、 ちょっと 断っ て おき たい 事 が ある 。
souseki 先生 は やっぱり 時々 こんな 会 へ お 出 掛 で か け に なる ん です か
souseki 私 は ちょっと 躊躇 ちゅうちょ し た 。 そう だ と いえ ば 、 父 の 病気 の 重い の を 裏書 きする よう な もの で あっ た 。 私 は 父 の 神経 を 過敏 に し たく なかっ た 。 しかし 父 は 私 の 心 を よく 見抜い て いる らしかっ た 。
souseki 二 人 は また 黙っ て 南 の 方 へ 坂 を 下り た 。
souseki あなた は 私 に 会っ て も おそらく まだ 淋 さび し い 気 が どこ か でし て いる でしょ う 。 私 に は あなた の ため に その 淋し さ を 根元 ね もと から 引き抜い て 上げる だけ の 力 が ない ん だ から 。 あなた は 外 ほか の 方 を 向い て 今 に 手 を 広げ なけれ ば なら なく なり ます 。 今に 私 の 宅 の 方 へ は 足 が 向か なく なり ます
souseki 奥さん の 様子 は 満足 とも 不満足 と も 極 き め よう が なかっ た 。 私 は それほど 近く 奥さん に 接触 する 機会 が なかっ た から 。 それから 奥さん は 私 に 会う たび に 尋常 で あっ た から 。 最後 に 先生 の いる 席 で なけれ ば 私 と 奥さん と は 滅多 めった に 顔 を 合せ なかっ た から 。
souseki 私 は 父 から その後 あと を 聞こ う と し た 。 父 は 話し たく な さ そう で あっ た が 、 とうとう こう いっ た 。
souseki 私 は 始め 心 の なか で 、 何 も 知ら ない 母 を 憐 あわ れん だ 。 しかし 母 が なぜ こんな 問題 を この ざわざわ し た 際 に 持ち出し た の か 理解 でき なかっ た 。 私 が 父 の 病気 を よそ に 、 静か に 坐っ たり 書見 し たり する 余裕 の ある ごとく に 、 母 も 眼 の 前 の 病人 を 忘れ て 、 外 ほか の 事 を 考える だけ 、 胸 に 空地 すき ま が ある の かしら と 疑 うたぐ っ た 。 その 時 実は ね と 母 が いい 出し た 。
souseki こんな もの は 巻い た なり手 に 持っ て 来る もの だ
souseki 父 は ただ これ だけ しか いわ なかっ た 。 しかし 私 は この 簡単 な 一句 の うち に 、 父 が 平生 へい ぜ い から 私 に対して もっ て いる 不平 の 全体 を 見 た 。 私 は その 時 自分 の 言葉 使い の 角張 かどば っ た ところ に 気が付か ず に 、 父 の 不平 の 方 ばかり を 無理 の よう に 思っ た 。
souseki 奥さん の 嫌わ れ て いる という 意味 が やっと 私 に 呑 の み 込め た 。
souseki ここ は 隅っこ だ から 番 を する に は 好 よ く あり ませ ん ね と 私 が いっ た 。
souseki もう 帰る の かい 、 まだ 早い じゃ ない か と 母 が いっ た 。
souseki よろしい と 先生 が いっ た 。 話し ましょ う 。 私 の 過去 を 残ら ず 、 あなた に 話し て 上げ ましょ う 。 その 代り … … 。 いや それ は 構わ ない 。 しかし 私 の 過去 は あなた に 取っ て それほど 有益 で ない かも 知れ ませ ん よ 。 聞か ない 方 が 増 まし かも 知れ ませ ん よ 。 それから 、 —— 今 は 話せ ない ん だ から 、 その つもり で い て 下さい 。 適当 の 時機 が 来 なくっ ちゃ 話さ ない ん だ から
souseki 最後 に K は とうとう 復籍 に 決し まし た 。 養家 から 出し て もらっ た 学資 は 、 実家 で 弁償 する 事 に なっ た の です 。 その 代り 実家 の 方 でも 構わ ない から 、 これから は 勝手 に しろ と いう の です 。 昔 の 言葉 で いえ ば 、 まあ 勘当 かんどう な の でしょ う 。 あるいは それほど 強い もの で なかっ た かも 知れ ませ ん が 、 当人 は そう 解釈 し て い まし た 。 K は 母 の ない 男 でし た 。 彼 の 性格 の 一 面 は 、 たしかに 継母 け いぼ に 育て られ た 結果 と も 見る 事 が できる よう です 。 もし 彼 の 実 の 母 が 生き て い たら 、 あるいは 彼 と 実家 と の 関係 に 、 こう まで 隔 へ だ たり が でき ず に 済ん だ かも 知れ ない と 私 は 思う の です 。 彼 の 父 は いう まで も なく 僧侶 そう り ょ でし た 。 けれども 義理堅い 点 において 、 むしろ 武士 さむ らい に 似 た ところ が あり は し ない か と 疑わ れ ます 。
souseki 私 わたくし が その 掛茶屋 で 先生 を 見 た 時 は 、 先生 が ちょうど 着物 を 脱い で これから 海 へ 入ろう と する ところ で あっ た 。 私 は その 時 反対 に 濡 ぬ れ た 身体 から だ を 風 に 吹かし て 水 から 上がっ て 来 た 。 二 人 の 間 あいだ に は 目 を 遮 さえぎ る 幾多 の 黒い 頭 が 動い て い た 。 特別 の 事情 の ない 限り 、 私 は ついに 先生 を 見逃し た かも 知れ なかっ た 。 それほど 浜辺 が 混雑 し 、 それほど 私 の 頭 が 放漫 ほう ま ん で あっ た に も かかわら ず 、 私 が すぐ 先生 を 見付け 出し た の は 、 先生 が 一 人 の 西洋 人 を 伴 つ れ て い た から で ある 。
souseki あなた の 手紙 、 —— あなた から 来 た 最後 の 手紙 —— を 読ん だ 時 、 私 は 悪い 事 を し た と 思い まし た 。 それで その 意味 の 返事 を 出そ う か と 考え て 、 筆 を 執 と り かけ まし た が 、 一行 も 書か ず に 已 や め まし た 。 どうせ 書く なら 、 この 手紙 を 書い て 上げ たかっ た から 、 そうして この 手紙 を 書く に は まだ 時機 が 少し 早 過ぎ た から 、 已め に し た の です 。 私 が ただ 来る に 及ば ない という 簡単 な 電報 を 再び 打っ た の は 、 それ が ため です 。
souseki どんな 事 です か
souseki 私 は 私 が どうして ここ へ 来 た か を 先生 に 話し た 。
souseki 子供 は いつ まで 経 た っ たって で きっ こ ない よ と 先生 が いっ た 。
souseki その 日取り の まだ 来 ない うち に 、 ある 大きな 事 が 起っ た 。 それ は 明治天皇 めいじ てん のう の ご 病気 の 報知 で あっ た 。 新聞紙 で すぐ 日本 中 へ 知れ渡っ た この 事件 は 、 一 軒 の 田舎家 いなか や の うち に 多少 の 曲折 を 経 て ようやく 纏 まと まろ う と し た 私 の 卒業 祝い を 、 塵 ちり の ご とく に 吹き払っ た 。
souseki 小 供 は こう 断っ て 、 躑躅 つつじ の 間 を 下 の 方 へ 駈け 下り て 行っ た 。 犬 も 尻尾 しっぽ を 高く 巻い て 小 供 の 後 を 追い掛け た 。 しばらく する と 同じ くらい の 年格好 の 小 供 が 二 、 三 人 、 これ も 斥候 長 の 下り て 行っ た 方 へ 駈け て いっ た 。
souseki 私 は 父 や 母 の 手前 、 この 地位 を できる だけ の 努力 で 求め つつ ある ごとく に 装お わ なく て は なら なかっ た 。 私 は 先生 に 手紙 を 書い て 、 家 の 事情 を 精 くわ しく 述べ た 。 もし 自分 の 力 で できる 事 が あっ たら 何 でも する から 周旋 し て くれ と 頼ん だ 。 私 は 先生 が 私 の 依頼 に 取り合う まい と 思い ながら この 手紙 を 書い た 。 また 取り合う つもり で も 、 世間 の 狭い 先生 として は どう する 事 も でき まい と 思い ながら この 手紙 を 書い た 。 しかし 私 は 先生 から この 手紙 に対する 返事 が きっと 来る だろ う と 思っ て 書い た 。
souseki K の 葬式 の 帰り 路 みち に 、 私 は その 友人 の 一 人 から 、 K が どうして 自殺 し た の だろ う という 質問 を 受け まし た 。 事件 が あっ て 以来 私 は もう 何 度 と なく この 質問 で 苦しめ られ て い た の です 。 奥さん も お嬢さん も 、 国 から 出 て 来 た K の 父兄 も 、 通知 を 出し た 知り合い も 、 彼 と は 何 の 縁故 も ない 新聞 記者 まで も 、 必ず 同様 の 質問 を 私 に 掛け ない 事 は なかっ た の です 。 私 の 良心 は その たび に ちくちく 刺さ れる よう に 痛み まし た 。 そう し て 私 は この 質問 の 裏 に 、 早く お前 が 殺し た と 白状 し て しまえ という 声 を 聞い た の です 。
souseki 私 は 淋 さび し い 人間 です と 先生 が いっ た 。 だから あなた の 来 て 下さる 事 を 喜ん で い ます 。 だから なぜ そう たびたび 来る の か と いっ て 聞い た の です
souseki 私 は 奥さん の 態度 を 色々 | 綜合 そう ご う し て 見 て 、 私 が ここ の 家 うち で 充分 信用 さ れ て いる 事 を 確かめ まし た 。 しかも その 信用 は 初対面 の 時 から あっ た の だ という 証拠 さえ 発見 し まし た 。 他 ひと を 疑 うたぐ り 始め た 私 の 胸 に は 、 この 発見 が 少し 奇異 な くらい に 響い た の です 。 私 は 男 に 比べる と 女 の 方 が それだけ 直覚 に 富ん で いる の だろ う と 思い まし た 。 同時に 、 女 が 男 の ため に 、 欺 だま さ れる の も ここ に ある の で は なかろ う か と 思い まし た 。 奥さん を そう 観察 する 私 が 、 お嬢さん に対して 同じ よう な 直覚 を 強く 働かせ て い た の だ から 、 今 考える と おかしい の です 。 私 は 他 ひと を 信じ ない と 心 に 誓い ながら 、 絶対 に お嬢さん を 信じ て い た の です から 。 それでいて 、 私 を 信じ て いる 奥さん を 奇異 に 思っ た の です から 。
souseki 先生 は 庭 の 方 を 向い て 笑っ た 。 しかし それ ぎり 奥さん の 厭 いや がる 事 を いわ なく なっ た 。 私 も あまり 長く なる ので 、 すぐ 席 を 立っ た 。 先生 と 奥さん は 玄関 まで 送っ て 出 た 。
souseki それでも その 人 の お蔭 かげ で 地位 が できれ ば まあ 結構 だ 。 お 父 とう さん も 喜ん でる よう じゃ ない か
souseki 私 は 心 の うち で こう 繰り返し ながら 、 その 意味 を 知る に 苦しん だ 。 私 は 突然 不安 に 襲わ れ た 。 私 は つづい て 後 あと を 読も う と し た 。 その 時 病室 の 方 から 、 私 を 呼ぶ 大きな 兄 の 声 が 聞こえ た 。 私 は また 驚い て 立ち上っ た 。 廊下 を 馳 か け 抜ける よう に し て みんな の いる 方 へ 行っ た 。 私 は いよいよ 父 の 上 に 最後 の 瞬間 が 来 た の だ と 覚悟 し た 。
touson 何故 なぜ で せ う ?
touson これ 、 お 作 や 。 御 辞儀 し ねえ か よ 。 其様 そんな に 他 様 ひと さま の 前 で 立つ てる もん ぢ や 無 え ぞ よ 。 奈何 どう し て 吾 家 うち の 児 は 斯 か う 行儀 が 不良 わる い だら ず ——
touson 我輩 も 今 、 其 を 言 は うかと 思 つて 居 た ところ さ 。
touson だ つて 関係 の 有 やう が 無い ぢ や あり ませ ん か 、 懇意 でも 何 で も 無い 人 に 。
touson なむ から かんのう 、 とら やあ 、 やあ ——
touson まあ 、 聞い て 下さい 。 此頃 迄 こ な ひだ まで 瀬川 君 は 鷹匠 たかし やう 町 の 下宿 に 居 まし たら う 。 彼 あ の 下宿 で 穢 多 の 大尽 が 放逐 さ れ まし たら う 。 すると 瀬川 君 は 突然 だしぬけ に 蓮華 寺 へ 引越し て 了 ひ まし たら う —— ホラ 、 を かしい ぢ や 有 ませ ん か 。
touson まあ 、 上る さ —— 猪子 君 の 細君 も 居る し 、 それ に 今 話し た 瀬川 君 も 一緒 だ から 、 是非 逢 つて や つて 呉れ たま へ 。 其様 そん な ところ に 腰掛け て 居 た ん ぢ や 、 緩 々 ゆ つくり 談話 はなし も 出来 ない ぢ や 無い か 。
touson 念 を 押し て 置い て 、 町会 議員 は 別れ て 行 つ た 。
touson ふむ 。
touson 田中 から 直江津 行 の 汽車 に 乗 つ て 、 豊野 へ 着い た の は 丁度 | 正午 ひる すこし 過 。 叔母 が 呉れ た 握飯 むすび は 停車場 ステーション 前 の 休 茶屋 で 出し て 食 つ た 。 空腹 すき ばら と は 言 ひ 乍 ら 五つ 迄 は 。 さて 残 つたの を 捨てる 訳 に も いか ず 、 犬 に 呉れる は 勿体 もつ たい なし 、 元 の 竹 の 皮 に 包ん で 外套 ぐわい た う の 袖 袋 かくし へ 突 込ん だ 。 斯 うし て 腹 を こし ら へ た 上 、 川船 の 出る といふ 蟹沢 を 指し て 、 草鞋 わら ぢ の 紐 ひも を 〆 直 しめ なほ し て 出掛け た 。 其間 | 凡 お よ そ 一 里 | 許 ばかり 。 尤も 往き と 帰り と で は 、 同じ 一 里 が 近く 思は れる もの で 、 北国 街道 の 平坦 た ひら な 長い 道 を 独り てく / \ やつ て 行く うち に 、 いつの間にか 丑松 は 広 濶 ひろ / ″\ と し た 千曲川 ちく ま が は の 畔 ほとり へ 出 て 来 た 。 急い で 蟹沢 の 船場 迄 行 つて 、 便船 びん せ ん は 、 と 尋ね て 見る と 、 今 々 飯山 へ 向け て 出 た ばかり と いふ 。 どうも 拠 よん どころ ない 。 次 の 便船 の 出る まで 是 処 こ ゝ で 待つ より 外 は 無い 。 それでも まだ 歩い て 行く より は 増 だ 、 と 考へ て 、 丑松 は 茶屋 の 上 あ が り 端 はな に 休ん だ 。
touson 其朝 ほど 無 思想 な 状態 あり さ ま で 居 た こと は 、 今 迄 丑松 の 経験 に も 無い ので あつ た 。 実際 其朝 は 半分 眠り 乍 ら 羽織 袴 を 着け て 来 た 。 奥様 が 詰 て 呉れ た 弁当 を 提げ て 、 久し 振 で 学校 の 方 へ 雪 道 を 辿 た ど つた 時 も 、 多く の 教員 仲間 から 弔辞 くやみ を 受け た 時 も 、 受持 の 高等 四 年生 に 取 囲 とり ま かれ て 種々 いろ / \ な こと を 尋ね られ た 時 も 、 丑松 は 半分 眠り 乍 ら 話し た 。 授業 が 始 つて から も 、 時々 | 眼前 め の ま へ の 事物 こと がら に 興味 を 失 つて 、 器械 の やう に 読本 の 講釈 を し て 聞か せ たり 、 生徒 の 質問 に 答 へ たり し た 。 其日 は 遊戯 の 時間 の 監督 に あたる 日 、 鈴 が 鳴 つて 休み に 成る 度 に 、 男女 の 生徒 は 四方 から 丑松 に 取 縋 と りす が つて 、 先生 、 先生 と 呼ん だり 叫ん だり し た が 、 何 を 話し て 何 を 答 へ た やら 、 殆 ん ど 其 感覚 が 無 かつ た 位 。 丑松 は 夢見る 人 の やう に 歩い て 、 あちこち と 馳せ ち が ふ 多く の 生徒 の 監督 を し た 。
touson といふ 細君 の 言葉 なぞ を 聞入れる お 作 で は 無 かつ た 。 見る から し て 荒くれ た 、 男 の 児 の やう な 小娘 。 これ が お 志保 の 異母 は らち が ひ の 姉妹 き やう だい と は 、 奈何 し て も 受取 れ ない 。
touson 時に 、 御 聞き でし た か 、 彼 あ の 瀬川 といふ 教員 の こと を 。
touson 今 、 また 阿 爺 おや ぢ の 声 が し た 。
touson 奈何 し て も 私 に は 左様 思は れ ませ ん 。
touson 初冬 の 光 は 町 の 空 に 満ち て 、 三 人 とも 羞明 まぶし い 位 で あつ た 。 上田 の 城跡 について 、 人通り の すくない 坂道 を 下り かけ た 時 、 丑松 は 先輩 と 細君 と が 斯 う いふ 談話 はなし を 為る の を 聞い た 。
touson では 、 いつ 引越し て いら つ し やい ます か 。
touson いよ / \ 苦痛 くるしみ の 重荷 を 下す 時 が 来 た 。
touson 聞い て 見る と 、 蓮 太郎 は 赤倉 の 温泉 へ 身体 を 養 ひ に 行 つて 、 今 其 | 帰途 か へり みち で ある と の こと 。 其時 | 同伴 つれ の 人々 を も 丑松 に 紹介 し た 。 右側 に 居る 、 何となく 人格 の 奥 床 おく ゆか し い 女 は 、 先輩 の 細君 で あつ た 。 肥大 な 老 紳士 は 、 かねて 噂 う はさ に 聞い た 信州 の 政客 せい かく 、 この 冬 打つ て 出よ う として 居る 代議士 の 候補 者 の 一 人 、 雄弁 と 侠気 を と こぎ と で 人 に 知ら れ た 弁護士 で あつ た 。
touson むゝ 左様 さ う です か 。
touson あゝ 、 お 志保 さん は 死ぬ かも 知れ ない 。
touson 大丈夫 だ よ 、 左様 さ う お前 の やう に 心配 し ない で も 。 と 蓮 太郎 は 叱る やう に 。
touson 十一月 三 日 は めづらし い 大 霜 。 長い / \ 山国 の 冬 が 次第に 近 ちか づ い た こと を 思は せる の は 是 これ 。 其朝 、 丑松 の 部屋 の 窓 の 外 は 白い 煙 に 掩 お ほ はれ た やう で あつ た 。 丑松 は 二 十 四 年 目 の 天長節 を 飯山 の 学校 で 祝 ふと いふ 為 に 、 柳行李 や な ぎがうり の 中 から 羽織 袴 を 出し て 着 て 、 去年 の 外套 ぐわい た う に 今年 も また 身 を 包ん だ 。
touson 銀之助 が 駈 寄 つて 、
touson 一 軒 、 根津 の 塚 窪 つ かく ぼ と いふ ところ に 、 未 ま だ 会葬 の 礼 に 泄 も れ た 家 が 有 つて 、 丁度 | 序 ついで だ から と 、 丑松 は 途中 で 蓮 太郎 と 別れ た 。 蓮 太郎 は 旅 舎 やど や へ 。 直に 後 から 行く 約束 し て 、 丑松 は 畠中 の 裏道 を 辿 た ど つた 。 塚 窪 の 坂の下 まで 行く と 、 とある 農家 の 前 に 一 人 の 飴屋 あめ や 、 面白 | 可 笑 を か しく 唐人 笛 た うじ ん ぶ え を 吹 立て ゝ 、 幼稚 を さ な い 客 を 呼 集め て 居る 。 御 得意 と 見え て 、 声 を 揚げ て 飛ん で 来る 男女 を とこ を ん な の 少年 も あつ た —— 彼処 あすこ から も 、 是 処 こ ゝ から も 。 あゝ 、 少年 の 空想 を 誘ふ やう な 飴 屋 の 笛 の 調子 は 、 どんなに 頑是 ぐわんぜ ない もの ゝ 耳 を 楽 ませる で あら う 。 いや 、 買 ひ に 集る 子供 ばかり で は 無い 、 丑松 で すら 思は ず 立 止 つて 聞い た 。 妙 な 癖 で 、 其笛 を 聞く 度 に 、 丑松 は 自分 の 少年 時代 を 思 出さ ず に 居 られ ない の で ある 。
touson 斯 こ の 草屋 は お 志保 の 生れ た 場 処 で 無い まで も 、 蓮華寺 へ 貰 はれ て 行く 前 、 敬之 進 の 言葉 に よれ ば 十 三 の 春 まで 、 斯 の 土 壁 の 内 に 育て られ た といふ こと が 、 酷 ひど く 丑松 の 注意 を 引い た 。 部屋 は 三 間 ばかり も 有る らしい 。 軒 の 浅い 割合 に 天井 の 高い の と 、 外部 そ と に 雪が こ ひ の し て 有る の と で 、 何となく 家 うち の 内 が 薄暗く 見える 。 壁 は 粗末 な 茶色 の 紙 で 張 つて 、 年々 と し /″\ の 暦 と 錦絵 と が 唯 一つ の 装飾 といふ こと に 成 つて 居 た 。 定めし お 志保 も 斯 の 古 壁 の 前 に 立つ て 、 幼い 眼 に 映る 絵 の 中 の 男女 を とこ を ん な を 自分 の 友達 の やう に 眺め た ので あらう 。 思ひ やる と 、 其昔 の こと も 俤 おも かげ に 描か れ て 、 言 ふ に 言 はれ ぬ 可 懐 なつか し さ を 添 へる ので あつ た 。
touson 丑松 が 驚い た の は 無理 も なかつ た 。 それ は 高柳 の 一行 で あつ た 。 往 ゆ き に 一緒 に 成 つて 、 帰り に も 亦 ま た 斯 こ の 通り 一緒 に 成る と は —— しかも 、 同じ 川舟 を 待合 はせる と は 。 それ に 往き に は 高柳 一 人 で あ つたの が 、 帰り に は 若い 細君 らしい 女 と 二 人 連 。 女 は 、 薄 色 縮緬 うすい ろ ちり めん の お 高祖 こそ を 眉 深 ま ぶ か に 冠 つた ま ゝ 、 丑松 の 腰掛け て 居る 側 を 通り過ぎ た 。 新しい 艶 の ある 吾妻 袍 衣 あづま コート に 身 を 包ん だ 其 | 嫋娜 すらり と し た 後姿 を 見る と 、 斯 こ の 女 が 誰 で ある か は 直に 読める 。 丑松 は あの 蓮 太郎 の 話 を 想起 お も ひ おこ し て 、 いよ / \ 其 が 事実 で あ つたの に 驚い て 了 しま つた 。
touson 十 八 貫 八 百 あれ ば 、 まあ 、 好い 籾 です 。 と 音 作 は 腰 を 延ばし て 言 つ た 。
touson 折角 せつ かく 皆さん が 彼 様 あゝ 言 つて 下さる 。 御 厚意 を 無 に する の は 反 つて 失礼 で せ う 。
touson と 言 はれ て 、 叔父 は 百姓 らしい 大 な 手 を 擦 も み 乍 な が ら 、
touson 生徒 を 御覧 なさい —— 瀬川 先生 、 瀬川 先生 と 言 つて 、 瀬川 君 ばかり 大騒ぎ し てる 。 彼 様 あんな に 大騒ぎ する の は 、 瀬川 君 の 方 で 生徒 の 機嫌 を 取る から で せ う ? 生徒 の 機嫌 を 取る といふ の は 、 何 か 其処 に 訳 が ある から で せ う ? 勝野 君 、 まあ 君 は 奈何 どう 思ひ ます 。
touson 川舟 は 風変り な 屋形 造り で 、 窓 を 附け 、 舷 ふ な べり から 下 を 白く 化粧 し て 赤い 二 本筋 を 横 に 表し て ある 。 それ に 、 艫 寄 とも より の 半分 を 板戸 で 仕切 つて 、 荷 積み の 為 に 区別 が し て ある ので 、 客 の 座る ところ は 細長い 座敷 を 見る やう 。 立て ば 頭 が 支 へる 程 。 人々 は いづれ も 狭苦しい 屋形 の 下 に 膝 を 突合せ て 乗 つ た 。
touson 其中 で 、 死ん だ 兄さん と 、 蓮華寺 へ 貰 はれ て 行き やし た 姉さん と 、 私 わし と —— これ だけ 母さん が 違 ひやす 。
touson 評判 な 美しい 女 で ご はす もの 。 色 の 白い 、 背 の すらり と し た —— まあ 、 彼 様 あん な 身分 の もの に は 惜しい やう な 娘 こ だ つて 、 克 よ く 他 ひと が 其 を 言 ひやす よ 。 へえ もう 二 十 四 五 に も 成る だら ず 。 若く 装 つく つて 、 十 九 か 二 十 位 に しか 見せ やせ ん が なあ 。
touson 何 です か 、 私 に 用事 が ある と 仰 お つ し や る の は 。 斯 う 催促 し て 、 郡 視学 は 威 丈 高 ゐ た けだか に なつ た 。 あまり 敬之 進 が 躊躇 ぐづ / \ し て 居る ので 、 終 しまひ に は 郡 視学 も 気 を 苛 い ら つて 、 時計 を 出し て 見 たり 、 靴 を 鳴らし て 見 たり し て 、
touson 何卒 どうぞ 私 に 手紙 を 一 本 書い て 下さい ませ ん か —— 済 す み ませ ん が 。
touson 事業 ? 壮健 たつ し や に 成れ ば いくら で も 事業 は 出来 ます わ 。 あゝ 、 一緒 に 東京 へ 帰 つ て 下され ば 好い ん です のに 。
touson 兎 と も 角 かく も 是 事 この こと を 話し て 友達 の 心 を 救 は う 。 市村 弁護士 の 宿 へ 行 つて 見 た 様子 で 、 復 ま た 後 の 使 に やつ て 来よ う 。 斯 う 約束 し て 、 軈 や が て 銀之助 は 炉辺 を 離れよ う と し た 。
touson と 思は ず 丑松 は 溜息 を 吐い た 。
touson と 言 つて 家 を 出る 。 叔父 も 直ぐ に 随 い て 出 た 。 何 か 用事 あり げ に 呼 留め た ので 、 丑松 は 行か う として 振 返 つ て 見る と 、 霜 葉 しも ば の 落ち た 柿 の 樹 の 下 の ところ で 、 叔父 は 声 を 低く し て
touson 斯 うし て 車 の 後 に 随 つ い て 、 とぼ / \ と 二 三 町 も 歩い て 来 た か と 思は れる 頃 、 今 迄 の 下宿 の 方 を 一寸 振 返 つて 見 た 時 は 、 思は ず ホツ と 深い 溜息 を 吐 つ い た 。 道路 みち は 悪し 、 車 は 遅し 、 丑松 は 静か に 一生 の 変遷 うつり か はり を 考へ て 、 自分 で 自分 の 運命 を 憐 み 乍 ら 歩い た 。 寂しい とも 、 悲しい とも 、 可 笑 を か しい とも 、 何とも か と も 名 の 附け やう の ない 心地 こ ゝ ろ もち は 烈しく 胸 の 中 を 往来 し 始める 。 追憶 おも ひで の 情 は 身 に 迫 つて 、 無限 の 感慨 を 起さ せる ので あつ た 。 それ は 十一月 の 近 ちか づ い た こと を 思は せる やう な 蕭条 せ う で う と し た 日 で 、 湿 つ た 秋 の 空気 が 薄い 烟 けぶり の やう に 町 々 を 引 包ん で 居る 。 路傍 みち ば た に 黄ばん だ 柳 の 葉 は ぱら / \ と 地 に 落ち た 。
touson まあ 、 私 わし は —— 姉さん で ご はす 。
touson 冷 れい です よ 、 燗 かん で は ご はせ ん よ —— 地 親 ぢ やう や さん は 是 方 こ つ ち で いら つ し やる から 。
touson 素人 しろうと は 其 だ から 困る 。 尤も 我輩 だ つて 素人 だ が ね 。 は ゝ ゝ ゝ ゝ 。 まあ 商売人 に 言 はせる と 、 冬 は また 冬 で 、 人 の 知ら ない ところ に 面白味 が ある 。 ナニ 、 君 、 風 さ へ 無 けり や 、 左様 さ う 思 つた 程 で も 無い よ 。 と 言 つて 、 敬之 進 は 一 口 飲ん で 、 然し 、 瀬川 君 、 考へ て 見 て 呉れ 給 へ 。 何 が 辛い と 言 つ たつ て 、 用 が 無く て 生き て 居る ほど 世の中 に 辛い こと は 無い ね 。 家内 や なんか が ※[# 足 へん + 昔 、 第 4 水準 2 - 89 - 36 ] 々 せつ せ と 働い て 居る 側 で 、 自分 ばかり 懐手 ふところ で し て 見 て も 居ら れ ず サ 。 まだ それでも 、 斯 うし て 釣 に 出 られる やう な 日 は 好い が 、 屋外 そ と へ も 出 られ ない やう な 日 と 来 て は 、 実に 我輩 は 為 す る 事 が 無く て 困る 。 左様 いふ 日 に は 、 君 、 他 に 仕方 が 無い から 、 まあ 昼寝 を 為る こと に 極 き め て ね ——
touson と 丑松 は 周章 あわ て ゝ 取 縋 と りす が ら う として —— 不 図 ふと 、 眼 が 覚め た の で ある 。
touson どう する も 斯 か う する も 無い ぢ や 有 ませ ん か 。 貴方 と 私 と は 全く 無関係 —— は ゝ ゝ ゝ ゝ 、 御 話 は 其丈 それだけ です 。
touson 烈しい ねえ 。 と 敬之 進 は 呆 あき れ て 、 君 は 今日 は 奈何 どう かし や し ない か 。 左様 さ う 君 の やう に 飲ん で も 可 い ゝ の か 。 まあ 、 好 加減 に し た 方 が 好から う 。 我輩 が 飲む の は 不思議 でも 何 で も 無い が 、 君 が 飲む の は 何だか 心配 で 仕様 が 無い 。
touson やがて 聴衆 は 珠 数 を 提 さ げ て 帰 つて 行 つ た 。 奥様 も 、 お 志保 も 、 今 は 座 を 離れ て 、 円柱 の 側 に 佇立 た ゝ ず み 乍 ら 、 人々 に 挨拶 し たり 見送 つ たり し た 。 雪 が また 降 つて 来 た と いふ ので 、 本堂 の 入口 は 酷 ひど く 雑踏 する 。 女連 は 多く 後 に なつ た 。 殊に 思ひ / \ の 風俗 し て 、 時 の 流行 はやり に 後れ まい と する 町 の 娘 の 有様 は 、 深く / \ お 志保 の 注意 を 引く ので あつ た 。 お 志保 は 熟 じ つ と 眺め 入り 乍 ら 、 寺 住 の 身 と 思 比べ て 居 た らしい の で ある 。
touson やがて 水 を 撃つ 棹 さ を の 音 が し た 。 舟 底 は 砂 の 上 を 滑り 始め た 。 今 は 二 挺 | 櫓 ろ で 漕ぎ 離れ た の で ある 。 丑松 は 隅 の 方 に 両足 を 投出し て 、 独り 寂し さ うに 巻煙草 を 燻 ふか し 乍 な が ら 、 深い / \ 思 に 沈ん で 居 た 。 河 の 面 に 映る 光線 の 反射 は 割合 に 窓 の 外 を 明く し て 、 降り そ ゝ ぐ 霙 の 眺め を おもしろく 見せる 。 舷 ふ な べり に 触れ て 囁 つぶ や く やう に 動揺 する 波 の 音 、 是 方 こちら で 思 つ た やう に 聞える 眠たい 櫓 の ひ ゞ き —— あゝ 静か な 水 の 上 だ 。 荒寥 くわ うれ う と し た 岸 の 楊柳 や なぎ も ところ /″\。 時 として は 其 冬木 の 姿 を 影 の やう に 見 て 進み 、 時として は 其枯 々 な 枝 の 下 を 潜る やう に し て 通り抜け た 。 是 これ から 将来 さき の 自分 の 生涯 は 畢竟 つまり 奈何 どう なる 。 斯 う 丑松 は 自分 で 自分 に 尋ねる こと も あつ た 。 誰 が 其 を 知ら う 。 窓 から 首 を 出し て 飯山 の 空 を 眺める と 、 重く 深く 閉塞 と ぢ ふさ が つた 雪雲 の 色 は うた ゝ 孤独 な 穢 多 の 子 の 心 を 傷 い た ま しめる 。 残酷 な やう な 、 可 懐 なつか し い やう な 、 名 の つけ やう の 無い 心地 こ ゝ ろ もち は 丑松 の 胸 の 中 を 掻乱 か きみ だ し た 。 今 —— 学校 の 連中 は 奈何 どう し て 居る だら う 。 友達 の 銀之助 は 奈何 し て 居る だら う 。 あの 不幸 な 、 老朽 な 敬之 進 は 奈何 し て 居る だら う 。 蓮華寺 の 奥様 は 。 お 志保 は 。 と 不 図 、 省吾 から 来 た 手紙 の 文句 なぞ を 思出 し て 見る と 、 逢 あ ひたい と 思ふ 其人 に 復 ま た 逢 はれる といふ 楽 み が 無い でも ない 。 丑松 は あの 寺 の 古 壁 を 思ひ やる ごと に 、 空 寂 な うち に も 血 の 湧く やう な 心地 こ ゝ ろ もち に 帰る ので あつ た 。
touson あゝ 、 気分 が 悪く て 居 なさる と 見える 。
touson まあ 、 君 は 何 といふ 冷 い 手 を し て ゐる だら う 。
touson 是 だ つて 言 つ たら 、 君 も 解り さうな もの ぢ や 無い か 。 と 町会 議員 は 手 を 振り 乍 ら 笑 つた 。
touson 左様 さ う なる と 、 猶々 なほ / \ 我輩 に は 解釈 が 付か なく なる 。 どうも 我輩 の 時代 に 比べる と 、 瀬川 君 なぞ の 考へ て 居る こと は 全く 違 ふ やう だ 。 我輩 の 面白い と 思ふ こと を 、 瀬川 君 なぞ は 一向 詰ら ない やう な 顔 し てる 。 我輩 の 詰ら ない と 思ふ こと を 、 反 つて 瀬川 君 なぞ は 非常 に 面白 が つ てる 。 畢竟 つまり 一緒 に 事業 し ごと が 出来 ない といふ は 、 時代 が 違 ふか ら で せ う か —— 新しい 時代 の 人 と 、 吾 儕 われ / \ と は 、 其様 そんな に 思想 かん が へ が 合 は ない もの な んで せ う か 。
touson 遽然 に は かに 丑松 は 黙 つて 了 つた 。 丁度 、 喪心 し た 人 の やう に 成 つた 。 丁度 、 身体 中 の 機関 だ う ぐ が 一時 に 動作 はたらき を 止め て 、 斯 うし て 生き て 居る こと すら 忘れ た か の やう で あつ た 。
touson そこ が 持つ て 生れ た 性分 サ 。 と 銀之助 は 何 か 思出 し た やう に 、 瀬川 君 といふ 人 は 昔 から 斯 う だ 。 僕 なぞ はも う ずん / \ 暴露 さら け だ し て 、 蔵 しま つて 置く と いふ こと は 出来 ない が なあ 。 瀬川 君 の 言 は ない の は 、 何 も 隠す 積り で 言 は ない の ぢ や 無い 、 性分 で 言 へ ない の だ 。 は ゝ ゝ ゝ ゝ 、 御 気の毒 な 訳さ ねえ —— 苦 むや うに 生れ て 来 た ん だ から 仕方 が 無い 。
touson どうも 彼処 あそこ の 家 うち は 喧 や かま しく つて —— 斯 か う 答 へ て 丑松 は 平気 を 装 は う と し た 。 争 はれ ない もの で 、 困 つ た といふ 気色 けしき は もう 顔 に 表れ た の で ある 。
touson そり や あ 好い 感化 なら 可 い けれども 、 悪い 感化 だ から 困る 。 見 たま へ 、 君 の 性質 が 変 つて 来 た の は 、 彼 の 先生 の もの を 読み出し て から だ 。 猪子 先生 は 穢 多 だ から 、 彼 様 あゝ いふ 風 に 考へる の も 無理 は 無い 。 普通 の 人間 に 生れ た もの が 、 なに も 彼 あ の 真似 を 為 なく て も よから う —— 彼 程 あれ ほど 極端 に 悲 ま なく て も よから う 。
touson 明日 に ?
touson 十二月 に 入 つて から 銀之助 は 最早 もう 客分 で あつ た 。 其日 は 午後 の 一 時半 頃 から 、 自分 の 用事 で 学校 へ 出 て 来 て 居 て 、 丁度 職員 室 で 話しこん で 居る 最中 、 不 図 丑松 の こと を 耳 に 入れ た 。 思は ず 銀之助 は そこ を 飛出し た 。 玄関 を 横 過 よ こぎ つて 、 長い 廊下 を 通る と 、 肩掛 に 紫 頭巾 むら さ きづき ん 、 帰り 仕度 の 女 生徒 、 あそこ に も 、 こ ゝ に も 、 丑松 の 噂 を 始め て 、 家路 に 向 ふ こと を 忘れ た か の やう 。 体操 場 に は 男 の 生徒 が 集 つて 、 話 は 矢 張 丑松 の 噂 で 持切 つて 居 た 。 左右 に 馳違 はせ ち が ふ 少年 の 群 を 分け て 、 高等 四 年 の 教室 へ 近い て 見る と 、 廊下 の ところ に 校長 、 教師 五 六 人 、 中 に 文平 も 、 其他 高等 科 の 生徒 が 丑松 を 囲繞 とり ま い て 、 参観 に 来 た 師範 校 の 生徒 まで 呆 あき れ 顔 が ほ に 眺め 佇立 た ゝ ず ん で 居 た の で ある 。 見れ ば 丑松 は すこし 逆上 とり のぼ せ た 人 の やう に 、 同僚 の 前 に 跪 ひざ ま づ い て 、 恥 の 額 を 板敷 の 塵埃 ほこり の 中 に 埋め て 居 た 。 深い 哀憐 あはれ み の 心 は 、 斯 こ の 可 傷 い た ま し い 光景 あり さ ま を 見る と 同時に 、 銀之助 の 胸 を 衝 つ い て 湧 上 わき あ が つた 。 歩み寄 つ て 、 助け 起し 乍 ら 、 着物 の 塵埃 ほこり を 払 つて 遣る と 、 丑松 は 最早 半分 夢中 で 、 土屋 君 、 許し て 呉れ 給 へ を か へ す が へす 言 ふ 。 告白 の 涙 は 奈何 どんな に 丑松 の 頬 を 伝 つて 流れ たら う 。
touson と 人々 は 一 音 に 叫ん だ 。 仙 太 の 手 から 打球 板 ラッケット を 奪 ひ 取ら う と し た 少年 なぞ は 、 手 を 拍 う つて 、 雀躍 こ を どり し て 、 喜ん だ 。 思は ず 校長 も 声 を 揚げ て 、 文平 の 勝利 を 祝 ふと いふ 風 で あつ た 。
touson はあ 。
touson 暫時 しばらく 二 人 は 無言 で 歩い た 。
touson 暫時 しばらく 二 人 は 無言 で あつ た 。 校長 は 窓 の 方 へ 行 つて 、 玻璃 越 ガラス ご し に 空 の 模様 を 覗 の ぞ い て 見 て 、
touson へえ 、 我輩 に 呉れる の か ね 。 と 敬之 進 は 目 を 円 まる くし て 、 こり やあ 驚い た 。 君 から 盃 を 貰 は う と は 思は なかつ た —— 道理 で 今日 は 釣れ ない 訳 だ よ 。 と 思は ず 流れ落ちる 涎 よ だれ を 拭 つたの で ある 。
touson と 指 ゆ びさ し 乍 ら 熟柿 じ ゆく し 臭 く さ い 呼吸 いき を 吹い た 。 敬之 進 は 何処 か で 飲ん で 来 た もの と 見える 。 指さ れ た 少年 の 群 は 一 度 に ど つと 声 を 揚げ て 、 自分 達 の 可 傷 あはれ な 先生 を 笑 つた 。
touson よくも 伺ひ ませ ん でし た けれど 、 と お 志保 は 口 籠 くちごも つて 、 あの 、 猪子 さん の 奥様 おく さん が 東京 から 御 見え に 成る さ う です ね 。 多分 その 方 へ 。 ホラ 市村 さん の 御宿 の 方 へ 尋ね て い らし ツ たん で せ う よ —— 何 でも 其様 そん な やう な 瀬川 さん の 口 振 でし た から 。
touson むゝ 、 左様 さ う し ませ う か 。 と 銀之助 も 火鉢 を 離れ て 立 上 つ た 。 瀬川 君 は すこし 奈何 どう かし てる んで せ う よ 。 まあ 、 僕 に 言 はせる と 、 何 か 神経 の 作用 な ん です ね え —— 兎 と に 角 かく 、 それでは 一寸 待つ て 下さい 。 僕 が 今 、 手提 洋 燈 て さげ ランプ を 点 つ け ます から 。
touson 斯 う いふ 風 に 親しく 言葉 を 交 へ て 居る 間 に も 、 と は 言 へ 、 全く 丑松 は 自分 を 忘れる こと が 出来 なかつ た 。 何 時 い つ 例 の こと を 切出さ う 。 その 煩悶 はんもん が 胸 の 中 を 往 つ たり 来 たり し て 、 一時 い つ とき も 心 を 静 息 やす ませ ない 。 あゝ 、 伝染 うつ り は す まい か 。 どう かする と 其様 そん な こと を 考へ て 、 先輩 の 病気 を 恐 しく 思ふ こと も 有る 。 幾度 か 丑松 は 自分 で 自分 を 嘲 あざ け つた 。
touson 飯山 —— 彼処 から は 候補 者 が 出 ませ う ? 御存じ です か 、 あの 高柳 利三郎 といふ 男 を 。
touson 敬之 進 は 寒 さ と 恐怖 おそれ と で 慄 へ 乍 ら 言 つ た 。 銀之助 は 笑 つて 、
touson 秋 の 日 は 烈しく 照りつけ て 、 人々 に は 言 ふ に 言 はれ ぬ 労苦 を 与 へた 。 男 は 皆 な 頬 冠 ほ つ かぶ り 、 女 は 皆 な 編笠 あみ が さ で あつ た 。 それ は めづらし く 乾燥 はし や い だ 、 風 の 無い 日 で 、 汗 は 人々 の 身体 を 流れ た の で ある 。 野 に 満ち た 光 を通して 、 丑松 は 斯 の 労働 の 光景 あり さ ま を 眺め て 居る と 、 不 図 ふと 、 倚凭 より か ゝ つた 藁 に よ の 側 わき を 十 五 ばかり の 一 人 の 少年 が 通る 。 日 に 焼け た 額 と 、 柔 嫩 や はら か な 目付 と で 、 直に 敬之 進 の 忰 せがれ と 知れ た 。 省吾 し やう ご と いふ の が 其 少年 の 名 で 、 丁度 丑松 が 受持 の 高等 四 年 の 生徒 な の で ある 。 丑松 は 其 | 容貌 か ほ つき を 見る 度 に 、 彼 の 老朽 な 教育 者 を 思 出さ ず に は 居 られ なかつ た 。
touson 他 に ?
touson と 丑松 は 帽子 を 脱い で 挨拶 し た 。 紳士 も 、 意外 な 処 で 、 といふ 驚喜 し た 顔 付 。
touson 獲物 え もの 無し サ 。 と 敬之 進 は 舌 を 出し て 見せ て 、 朝 から 寒い 思 を し て 、 一 匹 も 釣れ ない で は 君 、 遣 切 やり き れ ない ぢ や ない か 。
touson 丑松 は 黙 つて 随 い て 行 つ た 。 蓮 太郎 は 何 か 思出 し た やう に 、 後 から 来る 細君 の 方 を 振 返 つて 見 て 、 やがて 復 ま た 歩き 初める 。
touson ですから 世間 の 人 が 欺 だま さ れ て 居 た んで せ う 。
touson 六 俵 で 内 取 に 願 ひ やせ う 。
touson ぢ やあ 、 斯 か う 言 つ たら 好から う 。 と 文平 は 真面目 に 成 つて 、 譬 たと へ ば —— まあ 僕 は 例 を 引く から 聞き 給 へ 。 こ ゝ に 一 人 の 男 が 有る と し たま へ 。 其男 が 発狂 し て 居る と し たま へ 。 普通 なみ の もの が 其様 な 発狂 者 を 見 たつ て 、 それほど 深い 同情 は 起ら ない ね 。 起ら ない 筈 はず さ 、 別に 是 方 こちら に 心 を 傷 い た め る こと が 無い の だ もの 。
touson ところが 、 若 も しこ ゝ に 酷 ひど く 苦 ん だり 考へ たり し て 居る 人 が あつ て 、 其人 が 今 の 発狂 者 を 見 た と し たま へ 。 さあ 、 思ひ つめ た 可 傷 い た ま し い 光景 あり さ ま も 目 に 着く し 、 絶望 の 為 に 痩せ た 体格 も 目 に 着く し 、 日影 に 悄然 しよ ん ぼり として 死 といふ こと を 考へ て 居る やう な 顔 付 も 目 に 着く 。 といふ は 外 で も 無い 。 発狂 者 を 思ひ やる 丈 だけ の 苦痛 くるしみ が 矢 張 | 是 方 こちら に ある から だ 。 其処 だ 。 瀬川 君 が 人生 問題 なぞ を 考へ て 、 猪子 先生 の 苦 ん で 居る 光景 あり さ ま に 目 が 着く と いふ の は 、 何 か 瀬川 君 の 方 に も 深く 心 を 傷める こと が 有る から ぢ や 無から う か 。
touson いえ 、 只今 の 御 話 を 伺へ ば —— 別 に —— 私 から 御願 する 迄 も 有 ませ ん 。 御 言葉 に 従 つて 、 絶 念 あき ら め る より 外 は 無い と 思ひ ます 。
touson 風間 先生 、 笹屋 の 亭主 が 御 目 に 懸り たい と 言 つて 、 先刻 さつき から 来 て 待つ て 居り やす 。
touson むゝ 、 彼 あれ が 御 話 の あつ た 種牛 です ね 。 と 蓮 太郎 は 小声 で 言 つ た 。 人々 は 用意 に 取 掛かる と 見え 、 いづれ も 白 の 上 被 う はつ ぱり 、 冷飯草履 は 脱い で 素足 に 尻 端 折 。 笑 ふ 声 、 私語 さ ゝ や く 声 は 、 犬 の 鳴 声 に 交 つて 、 何となく 構内 は 混雑 し て 来 た の で ある 。
touson 急 に 、 羽織 を 脱ぎ捨て ゝ 、 そこ に ある 打球 板 ラッケット を 拾 つた は 丑松 だ 。 それ と 見 た 人々 は 意味 も なく 笑 つた 。 見物 し て 居る 女 教師 も 微笑 ほ ゝ ゑ ん だ 。 文平 | 贔顧 びいき の 校長 は 、 丑松 の 組 に 勝た せ たく ない と 思ふ か し て 、 熱心 に なつ て 窓 から 眺 な が め て 居 た 。 丁度 午後 の 日 を 背後 うし ろ に し た ので 、 位置 の 利 は 始め から 文平 の 組 の 方 に あつ た 。
touson 成 程 なるほど 、 自分 は 変 つ た 。 成 程 、 一 に も 二 に も 父 の 言葉 に 服従 し て 、 それ を 器械 的 に 遵奉 じ ゆん ぽう する やう な 、 其様 そん な 児童 こども で は 無く な つて 来 た 。 成 程 、 自分 の 胸 の 底 は 父 ばかり 住む 世界 で は 無く な つて 来 た 。 成 程 、 父 の 厳しい 性格 を 考へる 度 に 、 自分 は 反 つて 反対 あべこべ な 方 へ 逸出 ぬけ だ し て 行 つて 、 自由自在 に 泣い たり 笑 つ たり し たい やう な 、 其様 そん な 思想 かん が へ を 持つ やう に 成 つた 。 あゝ 、 世 の 無情 を 憤 いき ど ほ る 先輩 の 心地 こ ゝ ろ もち と 、 世に 随 へ と 教 へる 父 の 心地 と —— その 二 人 の 相違 は 奈何 どんな で あらう 。 斯 う 考へ て 、 丑松 は 自分 の 行く 道路 みち に 迷 つたの で ある 。
touson 転任 です か 。 と 郡 視学 は 仔細 らしく 、 兎角 とかく 条件 附 の 転任 は 巧 くい き ませ ん よ 。 それ に 、 斯 か う いふ こと が 世間 へ 知れ た 以上 は 、 何処 どこ の 学校 だ つて も 嫌がり ます さ —— 先 づ 休職 といふ もの で せ う 。
touson と 省吾 は 幾度 か 辞退 し た 。
touson 蓮 太郎 の 右側 に 腰掛け て 居 た 、 背 の 高い 、 すこし 顔色 の 蒼い 女 は 、 丁度 読みさし の 新聞 を 休 や め て 、 丑松 の 方 を 眺め た 。 玻璃 越 ガラス ご し に 山々 の 風景 を 望ん で 居 た 一 人 の 肥大 な 老 紳士 、 是 も 窓 の ところ に 倚凭 より か ゝ つて 、 振 返 つて 二 人 の 様子 を 見比べ た 。
touson や —— 復 た 呼ぶ 声 が する 。 何だか 斯 う 窓 の 外 の 方 で 。 と 丑松 は 耳 を 澄まし て 、 しかし 、 あまり 不思議 だ 。 一寸 、 僕 は 失敬 する よ —— もう一度 行 つて 見 て 来る から 。
touson は ゝ ゝ ゝ ゝ 。 と 丑松 は 快活 らしく 笑 つて 、 叔父さん 、 其様 そん な こと は 大丈夫 です 。
touson さま /″\ の 物語 が 始ま つ た 。 驚き 悲しむ 人々 を 前 に 置い て 、 丑松 は 実地 自分 が 歴 へ て 来 た 旅 の 出来事 を 語り 聞か せ た 。 種牛 の 為 に 傷 けら れ た 父 の 最後 、 番小屋 で 明し た 山の上 の 一夜 、 牧場 の 葬式 、 谷 蔭 の 墓 、 其他 草 を 食 ひ 塩 を 嘗 な め 谷川 の 水 を 飲ん で 烏帽子 ゑぼし ヶ | 嶽 だけ の 麓 に 彷徨 さま よ ふ 牛 の 群 の こと を 話し た 。 丑松 は 又 、 上田 の 屠牛 場 とぎ うば の こと を 話し た 。 其 小屋 の 板敷 の 上 に は 種牛 の 血汐 が 流れ た 光景 あり さ ま を 話し た 。 唯 、 蓮 太郎 夫婦 に 出 逢 つ た こと 、 別れ た こと 、 それから 飯山 へ 帰る 途中 川舟 に 乗合 し た 高柳 夫婦 —— 就中 わけても 、 あの 可憐 あはれ な 美しい 穢 多 の 女 の 身の上 に 就い て は 、 決して 一 語 ひとこと も 口外 し なかつ た 。
touson 斯 う 声 を 掛け て 見る 。
touson と 奥様 は 、 用意 し て 来 た 巻紙 状袋 を 取出し 乍 ら 、 丑松 の 返事 を 待つ て 居る 。 其 様子 が 何となく 普通 た ゞ で は 無い 、 と 丑松 も 看 み て 取 つ て 、
touson 不 取 敢 とり あ へ ず 、 一つ 差上げ ませ う 。 と 丑松 は 盃 さ か づき の 酒 を 飲 乾し て 薦 すゝ め る 。
touson 学校 の 運動 場 に は 雪 が 山 の やう に 積上げ て あつ た 。 木馬 や 鉄棒 かな ぼう は 深く 埋没 う づも れ て 了 しま つて 、 屋外 そ と の 運動 も 自由 に は 出来 かねる ところ から し て 、 生徒 は た ゞ 学校 の 内部 なか で 遊ん だ 。 玄関 も 、 廊下 も 、 広い 体操 場 も 、 楽し さ う な 叫び声 で 満ち 溢 あふ れ て 居 た 。 授業 の 始まる 迄 まで 、 丑松 は 最後 の 監督 を 為る 積り で 、 あちこち / \ と 廻 つて 歩く と 、 彼処 あそこ で も 瀬川 先生 、 此処 こ ゝ で も 瀬川 先生 —— まあ 、 生徒 の 附 纏 つき まと ふ の は 可愛らしい もの で 、 飛ん だり 跳 は ね たり する 騒がし さ も 名残 と 思へ ば 寧 い つ そい ぢ らし かつ た 。 廊下 の ところ に 立つ た 二 三 の 女 教師 、 互に じ ろ / \ 是 方 こちら を 見 て 、 目と 目 で 話し たり 、 くす / \ 笑 つ たり し て 居 た が 、 別に 丑松 は 気 に も 留め ない ので あつ た 。 其朝 は 三 年生 の 仙 太 も 早く 出 て 来 て 体操 場 の 隅 に 悄然 しよ ん ぼり として 居る 。 他 の 生徒 を 羨まし さ うに 眺め 佇立 た ゝ ず んで 居る の を 見る と 、 不 相 変 あ ひか はら ず 誰 も 相手 に する もの は 無い らしい 。 丑松 は 仙 太 を 背後 うし ろ から 抱 〆 だきしめ て 、 誰 が 見よ う と 笑 はう と 其様 そん な こと に 頓着 なく 、 自然 おの づ と 外部 そ と に 表れる 深い 哀憐 あはれ み の 情緒 こ ゝ ろ を 寄せ た の で ある 。 この 不幸 な 少年 も 矢 張 自分 と 同じ 星 の 下 に 生れ た こと を 思ひ 浮べ た 。 いつぞや この 少年 と 一緒 に 庭球 テニス の 遊戯 あそび を し て 敗け た こと を 思ひ 浮べ た 。 丁度 それ は 天長節 の 午後 、 敬之 進 を 送る 茶話 会 の 後 で あつ た こと など を 思ひ 浮べ た 、 不 図 、 廊下 の 向 ふ の 方 で 、 尋常 一 年 あたり の 女 の 生徒 で あらう 、 揃 つて 歌 ふ 無邪気 な 声 が 起つ た 。
touson 其耳 が 宛 あて に 成ら ない サ 。 君 の 父上 お とつ さん は 西乃 入 にし の いり の 牧場 に 居る ん だら う 。 あの 烏帽子 ゑぼし ヶ | 嶽 だけ の 谷間 た に あ ひ に 居る ん だら う 。 それ 、 見 給 へ 。 其 | 父上 お とつ さん が 斯様 こん な 隔絶 かけ は な れ た 処 に 居る 君 の 名前 を 呼ぶ なんて —— 馬鹿らしい 。
touson 結構 です 。
touson しかし 、 其時 に な つて 、 丑松 は 昨夜 ゆうべ の 出来事 を 思出 し た 。 あの 父 の 呼声 を 思出 し た 。 あの 呼声 が 次第に 遠く 細く な つて 、 別離 わかれ を 告げる やう に 聞え た こと を 思出 し た 。
touson 丁度 扇屋 で は 人々 が 蓮 太郎 の 遺骸 なき がら の 周囲 ま はり に 集 つ た ところ 。 親切 な 亭主 の 計 ひで 、 焼場 の 方 へ 送る 前 に 一応 亡くな つた 人 の 霊魂 たま し ひ を 弔 と むら ひたい と いふ 。 読経 どき やう は 法 福 寺 の 老 僧 が 来 て 勤め た 。 其日 の 午後 東京 から 着い た といふ 蓮 太郎 の 妻君 —— 今 は 未亡人 —— を 始め 、 弁護士 、 丑松 も かしこ まつ て 居 た 。 旅 で 死ん だ といふ こと を 殊 こと に あはれ に 思ふ か し て 、 扇屋 の 家 の 人 も か はる / ″\ 弔 ひ に 来る 。 縁 も ゆかり も 無い 泊 客 で すら 、 其 と 聞 伝へ た かぎり は 廊下 に 集 つて 、 寂しい 木魚 の 音 に 耳 を 澄 す ので あつ た 。
touson どうも 貴方 の 仰 お つ し や る こと は 私 に 能 く 解り ませ ん 。
touson 一 台 の 橇 そり は 朝 早く 扇 屋 の 前 で 停 つ た 。 下り た 客 は 厚 羅紗 あ つらし や の 外套 で 深く 身 を 包ん だ 紳士 風 の 人 、 橇 曳 そり ひき に 案内 さ せ て 、 弁護士 に 面会 を 求める 。 お ゝ 、 大日向 が 来 た 。 と 弁護士 は 出 て 迎 へ た 。 大日向 は 約束 を 違 た が へ ず やつ て 来 た ので 、 薄暗い うち に 下高井 を 発 た つた と いふ 。 上れ と 言 はれ て も 上り も せ ず 、 た ゞ 上 あ が り 框 が まち の ところ へ 腰掛け た 儘 ま ゝ で 、 弁護士 から 法律 上 の 智慧 ちゑ を 借り た 。 用談 を 済し 、 蓮 太郎 へ の 弔意 くやみ を 述べ 、 軈 や が て そこそこ に し て 行か う と する 。 其時 、 弁護士 は 丑松 の こと を 語り 聞 きか せ て 、
touson 僕 は 是 で 変 つ た か ねえ 。
touson 丑松 は すこし 蒼 あ を ざ め て 、
touson 斯 の 光景 あり さ ま を 丑松 は 藁 に よ の 蔭 に 隠れ 乍 ら 見 て 居 た 。 様子 を 聞け ば 聞く ほど 不幸 な 家族 を 憐 まず に は 居 られ なく なる 。 急 に 暮鐘 の 音 に 驚かさ れ て 、 丑松 は 其処 を 離れ た 。
touson 邪推 か は 知ら ない が 、 どうも 斯 こ の 校長 の 態度 しむけ が 変 つ た 。 妙 に 冷淡 しら /″\ しく 成 つた 。 いや 、 冷淡 しい ばかり で は 無い 、 可 厭 いや に 神経質 な 鼻 で もつ て 、 自分 の 隠し て 居る 秘密 を 嗅ぐ か の やう に も 感ぜ ら る ゝ 。 や ? と 猜疑 深 うたぐりぶか い 心 で 先方 さき の 様子 を 推量 し て 見る と 、 さあ 、 丑松 は 斯 の 校長 と 一緒 に 並ん で 歩く こと すら 堪へ 難い 。 どうか する と 階段 を 下りる 拍子 に 、 二 人 の 肩 と 肩 と が 触 合 すれ あ ふこ と も ある 。 冷 つめ た い 戦慄 み ぶる ひ は 丑松 の 身体 を通して 流れ 下る ので あつ た 。
touson と 言 はれ て も 、 お 作 は 知らん顔 。 何時の間にか ぷいと 駈 出し て 行 つて 了 つた 。
touson かみさん —— それでは 先刻 さつき の もの を 茲 こ ゝ へ 出し て 下さい 。
touson 斯 う 言 つて 、 其 を 省吾 の 手 に 持たし て 居る ところ へ 、 急 に 窓 の 外 の 方 で 上 草履 の 音 が 起る 。 丑松 は 省吾 を 其処 に 残し て 置い て 、 周章 あわ て ゝ 教室 を 出 て 了 つた 。
touson 代議士 に でも ?
touson そん なら 町 の 人 が 噂 う はさ する から と 言 つて 、 根 も 葉 も 無い やう な こと を 取上げる ん です か 。
touson 其時 小使 が 重た さ う な 風呂敷 包 を 提げ て 役場 から 帰 つて 来 た 。 斯 こ の しらせ を 機 し ほ に 、 郡 視学 は 帽子 を 執 つ て 、 校長 に 送ら れ て 出 た 。
touson そいつ は 不思議 だ —— 君 が 読ま ない といふ の は 不思議 だ 。
touson 上 の 渡し の 方 へ 曲ら う と する 町 の 角 で 、 一同 は お 志保 に 出 逢 で あ つた 。
touson 何故 ツ て 、 左様 ぢ や 有 ませ ん か 。 私 が 取 つて 代り たい 為 に 、 其様 な こと を 言 ひ 触ら し た と 思は れ て も 厭 です から —— 毛頭 私 は 其様 な 野心 が 無い ん です から —— なに も 瀬川 君 を 中傷 する 為 に 、 御 話 する の で は 無い ん です から 。
touson あゝ 。 と 校長 は 嘆息 し て 了 つた 。 それにしても 、 よく 知れ ず に 居 た もの さ 、 どうも 瀬川 君 の 様子 が を かしい / \ と 思 つ た よ —— 唯 、 訳 も 無し に 、 彼 様 あゝ 考 へ 込む 筈 はず が 無い から ねえ 。
touson ホウ 、 何 か 訳 が 有る の かい 。 と 蓮 太郎 は 聞 咎める 。
touson と 呼ぶ 校長 の 声 は 長い 廊下 に 響き 渡 つた 。
touson といふ 兄 の 言葉 に 附い て 、 弟 は また 独語 ひとり ごと の やう に 、
touson 暫時 しばらく 丑松 は 茫然 として 部屋 の 内 を 眺め 廻し て 居 た が 、 急 に 寝床 を 片付け て 、 着物 を 着 更 へ て 見 た 。 不 図 ふと 思ひ つい た やう に 、 押入 の 隅 の ところ に 隠し て 置い た 書物 を 取出し た 。 それ は いづれ も 蓮 太郎 を 思出 さ せる もの で 、 彼 の 先輩 が 心血 と 精力 と を 注ぎ 尽し た といふ 現代 の 思潮 と 下層 社会 、 小 冊子 に は 平凡 なる 人 、 労働 、 貧しき もの ゝ 慰め 、 それから 懴悔 録 なぞ 。 丑松 は 一々 | 内部 なか を 好く 改めて 見 て 、 蔵書 の 印 が はり に 捺 お し て 置い た 自分 の 認印 みとめ を 消し て 了 つた 。 ほか に 、 床の間 に 置 並べ た 語学 の 参考 書 の 中 から 、 五 六 冊 不要 な の を 抜取 つ て 、 塵埃 ほこり を 払 つて 、 一緒 に し て 風呂敷 に 包ん で 居る と 、 丁度 そこ へ 袈裟 治 が 入 つて 来 た 。
touson まあ 、 何と 申 上げ て 可 い ゝ か 解り ませ ん けれど —— と お 志保 は 耳 の 根元 まで も 紅 あか く な つて 、 私 は もう 其 積り で 居り ます ん です よ 。
touson それ が 宛 あて に なり やし ませ ん —— 兎 に 角 、 瀬川 とか 高橋 とかいふ 苗字 が 彼 あ の 仲間 に 多い といふ こと は 叔父 から 聞き まし た 。
touson 難 有 あり がた う ぞんじ ます —— そん なら 御 気 を つけ なす つて 。
touson しかし 、 左様 いふ もの で は 無い よ 。 と 校長 は 一寸 郡 視学 の 方 を 向い て 見 て 、 軈 や が て 銀之助 の 顔 を 眺め 乍 ら 、 君 等 は 未だ 若い から 、 其程 世間 といふ もの に 重き を 置か ない ん だ 。 幼稚 な やう に 見え て 、 馬鹿 に なら ない の は 、 世間 さ 。
touson 見 たま へ 、 まあ 斯 この 信濃 毎日 を 。 と 郡 視学 は 馴 々 敷 なれ / \ しく 、 君 が 金牌 を 授与 さ れ た といふ こと から 、 教育 者 の 亀鑑 だ と いふ こと 迄 、 委 敷 く は しく 書い て 有 ます よ 。 表彰 文 は 全部 。 それ に 、 履歴 まで も 。
touson 何故 なぜ 人 の 真情 は 斯 う 思ふ やう に 言 ひ 表す こと の 出来 ない もの で あらう 。 其日 といふ 其日 こそ は 、 あの 先輩 に 言 ひたい / \ と 思 つて 、 一 度 と なく 二度と なく 自分 で 自分 を 励まし て 見 た が 、 とう / \ 言 はず に 別れ て 了 しま つた 。 どんなに 丑松 は 胸 の 中 に 戦ふ 深い 恐怖 おそれ と 苦痛 くるしみ と を 感じ たら う 。 どんなに 丑松 は 寂しい 思 を 抱 い だ き 乍 な が ら 、 もと 来 た 道 を 根津 村 の 方 へ と 帰 つて 行 つ たら う 。
touson あゝ 、 精舎 の 静寂 しづか さ —— 丁度 其 は 古蹟 の 内 を 歩む と 同じ やう な 心地 こ ゝ ろ もち が する 。 円 まる い 塗 柱 に 懸かる 時計 の 針 の 刻々 を きざむ より 外 に は 、 斯 こ の 高く 暗い 天井 の 下 に 、 一つ として 音 の する もの は 無 かつ た 。 身 に 沁み 入る やう な 沈黙 は 、 そこ に も 、 こ ゝ に も 、 隠れ 潜ん で 居る か の やう 。 目 に 入る もの は 、 何もかも —— 錆 さび を 帯び た 金色 こんじ き の 仏壇 、 生気 の 無い 蓮 はす の 造花 つくり ば な 、 人 の 空想 を 誘ふ やう な 天界 てん がい の 女人 に よに ん の 壁 に 画 か かれ た 形像 かたち 、 すべて それら の もの は 過去 すぎ さ つた 時代 の 光 華 ひかり と 衰頽 おと ろ へ と を 語る ので あつ た 。 丑松 は 省吾 と 一緒 に 内陣 迄 も 深く 上 つて 、 仏壇 の かげ に ある 昔 の 聖 僧 達 の 画像 の 前 を 歩い た 。
touson 其 調子 が いかにも 可 笑 を か しか つ た 。 盛ん な 笑声 が 百姓 や 橇 曳 そり ひき の 間 に 起つ た 。
touson 間 も 無く 省吾 は 出 て 行 つ た 。 丑松 は 唯 | 単独 ひとり に なつ た 。 急 に 本堂 の 内部 なか は ※[# 門 < 貝 、 第 4 水準 2 - 91 - 57 ] しん として 、 種々 さま /″\ の 意味 あり げ な 装飾 が 一層 無言 の なか に 沈ん だ やう に 見える 。 深い 天井 の 下 に 、 いつ まで も 変ら ず に ある 真鍮 しん ち ゆう の 香炉 、 花立 、 燈明 皿 —— そんな 性 命 いのち の 無い 道具 まで 、 何となく 斯 う 寂寞 じ やく まく な 瞑想 めい さ う に 耽 つ て 居る やう で 、 仏壇 に 立つ 観音 くわ ん おん の 彫像 は 慈悲 と いふ より は 寧 むし ろ 沈黙 の 化身 けし ん の やう に 輝い た 。 斯 う いふ 静寂 しづか な 、 世離れ た ところ に 立つ て 、 其人 の こと を 想 おも ひ 浮べ て 見る と 、 丁度 古蹟 を 飾る 花 草 の やう な 気 が する 。 丑松 は 、 血 の 湧く 思 を 抱き 乍 ら 、 円い 柱 と 柱 と の 間 を 往 つ たり 来 たり し た 。
touson と 言 はれ て 、 省吾 は 御 辞儀 一つ し て 、 軈 や が て ぷいと 駈 出し て 行 つて 了 つた 。 丑松 も 雪 の 中 を 急い だ 。
touson 楽しい 笑声 は 座敷 の 内 に 溢 あふ れ た 。 お 志保 は 紅 あか く なつ た 。 斯 う いふ 間 に も 、 独り 丑松 は 洋 燈 ランプ の 火影 ほか げ に 横 に な つて 、 何 か 深く 物 を 考へ て 居 た の で ある 。
touson 紅く 泣腫 なき は れ た お 志保 の 頬 に は 涙 の 痕 あと が 未だ 乾か ず に あつ た 。 奈何 どう いふ こと を 言 つて 丑松 が 別れ て 行 つ た か 、 それ は もう お 志保 の 顔 付 を 眺め た ばかり で 、 大凡 おおよそ の 想像 が 銀之助 の 胸 に 浮ぶ 。 あの 小学校 の 廊下 の ところ で 、 人々 の 前 に 跪 ひざ ま づ い て 、 有 の 儘 ま ゝ に 素性 を 自白 する といふ 行為 やり かた から 推 お し て 考へ て も —— 確か に 友達 は 非常 な 決心 を 起し た ので あらう 。 其 心根 は 。 思へ ば 憫然 びん ぜん な もの だ 。 斯 う 銀之助 は 考へ て 、 何卒 どう か し て 友達 を 助け たい 、 と 其 を お 志保 に も 話さ う と 思ふ ので あつ た 。 銀之助 は 先 づお 志保 の 身の上 から 聞き 初め た 。
touson いや 、 左様 さ う いふ 御 心配 に 預り まし て は 実に 恐縮 し ます 。 と 校長 は 倚子 いす を 離れ て 挨拶 し た 。 今回 の こと は 、 教育 者 に 取り まし て も 此上 も ない 名誉 な 次第 で 、 非常 に 私 も 嬉 敷 うれしく 思 つて は 居る の です が —— 考へ て 見 ます と 、 是 ぞ と 言 つて 功績 の あつ た 私 で は なし 、 実は 斯 う いふ 金牌 なぞ を 頂戴 し て 、 反 か へ つて 身 の 不肖 を 恥づる やう な 次第 で 。
touson 電報 は 簡短 で 亡くな つ た 事情 も 解ら なかつ た 。 それ に 、 父 が 牧場 の 番小屋 に 上る の は 、 春雪 の 溶け 初める 頃 で 、 また 谷 々 が 白く 降り 埋 う づ め られる 頃 に なる と 、 根津 村 の 家 へ 下り て 来る 毎年 まい と し の 習慣 で ある 。 もう そろ / \ 冬 籠り の 時節 。 考へ て 見れ ば 、 亡くな つた 場 処 は 、 西乃 入 か 、 根津 か 、 其 すら 斯電 報 で は 解ら ない 。
touson 瀬川 君 、 奈何 どう です 、 今日 の 長野 新聞 は 。
touson 省吾 や 。 お前 め へ は まあ 幾 歳 いくつ に 成 つ たら 御 手 伝 ひする 積り だ よ 。 と 言 ふ 細君 の 声 は 手 に 取る やう に 聞え た 。 省吾 は 継母 を 懼 おそ れる といふ 様子 し て 、 お づ / \ と 其前 に 立つ た の で ある 。
touson 奈何 どう です 、 土屋 君 。 と 準 教員 は 銀之助 の 方 を 見 て 、 吾 儕 われ / \ は 今 、 瀬川 君 の こと に 就い て 二 派 に 別れ た ところ です 。 君 は 瀬川 君 と 同窓 の 友 だ 。 さあ 、 君 の 意見 を 一つ 聞か せ て 呉れ 給 へ 。
touson 奥様 に 言 はせる と 、 今 の 住職 が 敬之 進 の 為 に 尽し た こと は 一 通り で 無い 。 あの 酒 を 断つ たら ば 、 と は 克 よ く 住職 の 言 ふ こと で 、 禁酒 の 証文 を 入れる 迄 に 敬之 進 が 後悔 する 時 は あ つて も 、 また / \ 縒 より が 元 へ 戻 つて 了 ふ 。 飲め ば 窮 こま る と いふ こと は 知り つ ゝ 、 どうしても 持つ た 病 に は 勝て ない らしい 。 その 為 に 敷居 が 高く な つて 、 今 で は 寺 へ も 来ら れ ない やう な 仕 末 。 あの 不幸 ふし あ は せ な 父親 の 為 に は 、 どんなに かお 志保 も 泣い て 居る と の こと で あつ た 。
touson 考へ て 見 な 、 もう 十 五 ぢ や ねえ か 。 と 怒 を 含ん だ 細君 の 声 は 復 た 聞え た 。 今日 は 音 さん まで 御 頼 申 お たのま う し て 、 斯 うし て 塵埃 ほこり だらけ に 成 つて 働 かま け て 居る のに 、 それ が お前 の 目 に は 見え ねえ か よ 。 母さん が 言 は ねえ だ つて 、 さ つ さ と 学校 から 帰 つて 来 て 、 直に 御 手 伝 ひする の が 当然 あたり ま へ だ 。 高等 四 年 に も 成 つて 、 未 ま だ ※ [# 阜 の 十 に 代え て 虫 、 第 4 水準 2 - 87 - 44 ] 螽捕 いなご と り に 夢中 に 成 つ てる なんて 、 其様 そん な もの が 何処 に ある —— 与太 坊主 め 。
touson 斯 う いふ 言葉 を 夢中 に 聞捨て ゝ 、 敬之 進 は 其処 へ 倒れ て 了 つた 。 奥 の 方 で は 、 怒気 いかり を 含ん だ 細君 の 声 と 一緒 に 、 叱ら れ て 泣く 子供 の 声 も 起る 。 何 し た ん だ 、 どう いふ もん だ —— め た ( 幾度 も ) 悪戯 わる さ し ちや 困る ぢ や ない かい 。 といふ 細君 の 声 を 聞い て 、 音 作 は 暫時 しばらく 耳 を 澄まし て 居 た が 、 軈 や が て 思ひ つい た やう に 、
touson 四 斗 七 升 ?
touson 新聞 を ? と 校長 は 不思議 さ うに 丑松 の 顔 を 眺め て 、 へえ 、 何 か 面白い 記事 こと で も 有 ます か ね 。
touson 其時 、 お 志保 が 入 つて 来 た 。
touson 省吾 は 答 へ なかつ た 。
touson と 水 に 響く 櫓 の 音 も 同じ やう に 調子 を 合せ た 。
touson 校長 先生 、 と 丑松 は 何気なく 尋ね て 見 た 。 どう で せ う 、 今日 は すこし 遅く 始め まし たら 。
touson 斯 か う いふ 風 に 、 過去 つ た こと を 思ひ 浮べ て 居る と 、 お 妻 から お 志保 、 お 志保 から お 妻 と 、 二 人 の 俤 おも かげ は 往 い つ たり 来 たり する 。 別に あの 二 人 は 似 て 居る で も 無い 。 年齢 と し も 違 ふ 、 性質 も 違 ふ 、 容貌 か ほか たち も 違 ふ 。 お 妻 を 姉 とも 言 へ ない し 、 お 志保 を 妹 と も 思は れ ない 。 しかし 一方 の こと を 思 出す と 、 きつ と 又 た 一方 の こと を も 考へ て 居る の は 不思議 で ——
touson ホウ 、 左様 さ う か ねえ 。
touson 失敬 する よ 、 僕 は 斯様 こん な もの を 着 て 居る から 。 ナニ 、 君 、 其様 そんな に 酷 ひど く 不良 わる くも 無い ん だ から 。
touson 左様 さ う です なあ 、 僕 の 読ん だ の は 労働 と いふ もの と 、 それから 現代 の 思潮 と 下層 社会 —— あれ を 瀬川 君 から 借り て 見 まし た 。 なか / \ 好い ところ が 有 ます よ 、 力 の ある 深刻 な 筆 で 。
touson フウ 、 君 の 名前 を ? と 敬之 進 は もう 目 を 円 まる くし て 了 しま つた 。
touson 阿 爺 お とつ さん 、 阿 爺さん 。
touson 奈何 どう です か 、 父上 お とつ さん の 御 様子 は 。 と 銀之助 は 同情 深 お も ひ やり ぶ か く 尋ね て 見る 。
touson 噂 に も よりけり さ 。 其様 な こと を 言 はれ ち やあ 、 大 に 吾 儕 われ / \ が 迷惑 する ねえ 。 克 よ く 町 の 人 は 種々 いろ / \ な こと を 言触らす 。 やれ 、 女 の 教員 が 奈何 どう し た の 、 男 の 教員 が 斯様 かう し た の ツ て 。 何故 なぜ 、 左様 さ う 人 の 噂 が 為 たい ん だら う 。 そん なら 、 君 、 まあ 学校 の 職員 を 数 へ て 見 給 へ 。 穢 多 らしい やう な 顔 付 の もの が 吾 儕 の 中 に ある かい 。 実に 怪しから ん こと を 言 ふ ぢ や ない か —— ねえ 、 瀬川 君 。
touson とお 志保 は 問 ひ 反し て 、 対 手 あ ひ て の 心 を 推量 し 乍 ら 眺め た 。 若々しい 血潮 は 思は ず お 志保 の 頬 に 上る ので あつ た 。
touson いや 、 私 こそ —— 御 疲労 お つかれ の ところ へ 。 と 高柳 は 如才 ない 調子 で 言 つ た 。 昨日 さ くじ つ は 舟 の 中 で 御 一緒 に 成 まし た 時 に 、 何とか 御 挨拶 を 申 上げよ う か 、 申 上げ なけれ ば 済まない が 、 と 斯 か う 存じ まし た の です が 、 あんな 処 で 御 挨拶 し ます の も 反 か へ つて 失礼 と 存じ まし て —— 御 見 懸け 申し 乍 ら 、 つい 御 無礼 を 。
touson 百 円 足らず ?
touson 奈何 どう し た ん だら う 、 まあ 彼 の 奥様 の 様子 は 。
touson 友達 が 帰 つた 後 、 丑松 は 心 の 激昂 を 制 お さ へ きれ ない といふ 風 で 、 自分 の 部屋 の 内 を 歩い て 見 た 。 其日 の 物語 、 あの 二 人 の 言 つた 言葉 、 あの 二 人 の 顔 に 表れ た 微細 な 感情 まで 思出 し て 見る と 、 何となく 胸 肉 むなじゝ の 戦慄 ふる へる やう な 心地 が する 。 先輩 の 侮辱 さ れ た といふ こと は 、 第 一 | 口 惜 く や しか つ た 。 賤民 だ から 取る に 足ら ん 。 斯 か う いふ 無法 な 言 草 は 、 唯 考へ て 見 た ばかり で も 、 腹立たしい 。 あゝ 、 種族 の 相違 といふ 屏 ※[# て へん + 當 、 第 4 水準 2 - 13 - 50 ] わだかまり の 前 に は 、 いかなる 熱い 涙 も 、 いかなる 至情 の 言葉 も 、 いかなる 鉄槌 て つつ ゐ の やう な 猛烈 な 思想 も 、 それ を 動かす 力 は 無い ので あらう 。 多く の 善良 な 新 平民 は 斯 うし て 世 に 知ら れ ず に 葬り 去ら る ゝ の で ある 。
touson 全く 丑松 は 蓮 太郎 を 知ら ない でも 無 かつ た 。 人 の 紹介 で 逢 つて 見 た こと も 有る し 、 今 歳 ことし に な つて 二 三 度 手紙 の 往復 とり やり も し た ので 、 幾分 いくら か 互 ひ の 心情 こ ゝ ろ もち は 通じ た 。 然し 、 蓮 太郎 は 篤志 な 知己 として 丑松 の こと を 考へ て 居る ばかり 、 同じ 素性 の 青年 と は 夢にも 思は なかつ た 。 丑松 も また 、 其 秘密 ばかり は 言 ふ こと を 躊躇 ち うち よ し て 居る 。 だから 何となく 奥歯 に 物 が 挾ま つ て 居る やう で 、 其晩 書い た 丑松 の 手紙 に も 十分 に 思 つ た こと が 表れ ない 。 何故 なぜ 是 程 これ ほど に 慕 つて 居る か 、 其 さ へ 書け ば 、 他 の 事 は もう 書か なく て も 済 す む 。 あゝ —— 書ける もの なら 丑松 も 書く 。 其 を 書け ない といふ の は 、 丑松 の 弱点 で 、 とう / \ 普通 の 病気 見舞 と 同じ もの に 成 つて 了 つた 。 東京 にて 、 猪子 蓮 太郎 先生 、 瀬川 丑松 より と 認 し た ゝ め 終 つた 時 は 、 深く / \ 良心 こ ゝ ろ を 偽 いつ は る やう な 気 が し た 。 筆 を 投 なげ う つて 、 嘆息 し て 、 復 ま た 冷 い 寝床 に 潜り込ん だ が 、 少 許 すこし と ろ / \ と し た か と 思ふ と 、 直に 恐し い 夢 ばかり 見 つ ゞ けた の で ある 。
touson 現世 の 歓楽 を 慕 ふ 心 は 、 今 、 丑松 の 胸 を 衝い て むら / \ と 湧き 上 つ た 。 捨て られ 、 卑 いや しめら れ 、 爪 弾 つま はじ きせ られ 、 同じ 人間 の 仲間 入 すら 出来 ない やう な 、 つたない 同族 の 運命 を 考へれ ば 考へる ほど 、 猶々 なほ / \ 斯 の 若い 生命 いのち が 惜 まる ゝ 。
touson 進 や 。 父さん は 何 し てる か 、 お前 め へ 知ら ねえ かや 。
touson そこ が 君 の 頼 母 たのも し い ところ さ 。 何卒 どう か 、 君 、 彼 様 あゝ いふ 悪い 風潮 に 染ま ない やう に し て 呉れ たま へ 。 及ば ず ながら 君 の こと に 就い て は 、 我輩 も 出来る だけ の 力 を 尽す つもり だ 。 世の中 の こと は 御 互 ひ に 助け たり 助け られ たり さ —— まあ 、 勝野 君 、 左様 さ う ぢ や 有 ませ ん か 。 今 | 茲 こ ゝ で 直に 異 分 予 を 奈何 どう する と いふ 訳 に も いか ない 。 です から 、 何 か 好い 工夫 で も 有 つ たら 、 考へ て 置い て 呉れ たま へ —— 瀬川 君 の こと に 就い て 何 か 聞込む やう な 場合 でも 有 つ たら 、 是非 それ を 我輩 に 知らせ て 呉れ たま へ 。
touson 斯 う いふ 思想 かん が へ を 抱い て 、 軈 や が て 以前 もと 来 た 道 の 方 へ 引返し て 行 つた 頃 は 、 閏 うる ふ 六 日 ばかり の 夕 月 が 黄昏 たそがれ の 空 に 懸 つ た 。 尤も 、 丑松 は 直に 其足 で 蓮 太郎 の 宿屋 へ 尋ね て 行か う と は し なかつ た 。 間 も 無く 演説 会 の 始まる こと を 承知 し て 居 た 。 左様 だ 、 其の 済む まで 待つ より 外 は 無い と 考へ た 。
touson どれ 、 それでは 行 つて 見 て 来 ます 。
touson やあ —— 猪子 先生 。
touson 何 の 気 なし に 斯 う いふ こと を 言 出し た が 、 軈 や が て お 志保 は 伏目 勝 に 成 つて 、 血 肥り の し た 娘 らしい 手 を 眺め た の で ある 。
touson といふ 訳 で 、 瀬川 さん に も 御 話し た の です が 、 と 弁護士 は 銀之助 の 顔 を 眺め 乍 ら 言 つ た 。 学校 の 方 の 都合 は 、 君 、 奈何 どん な もの で せ う 。
touson いや 、 つまらな か ない 。 と 丑松 は 聞入れ なかつ た 。 僕 は 君 、 是 これ でも 真面目 まじめ な ん だ よ 。 まあ 、 聞き 給 へ —— 勝野 君 は 今 、 猪子 先生 の こと を 野蛮 だ 下等 だ と 言 はれ た が 、 実際 御 説 の 通り だ 。 こり や 僕 の 方 が 勘 違 ひ を し て 居 た 。 左様 だ 、 彼 の 先生 も 御 説 の 通り に 獣皮 か は い ぢ り でも し て 、 神妙 に し て 引込ん で 居れ ば 好い の だ 。 それ さ へ し て 黙 つて 居れ ば 、 彼 様 な 病気 なぞ に 罹 か ゝ り は し なかつ た の だ 。 その 身体 の こと も 忘れ て 了 つて 、 一 日 も 休ま ず に 社会 と 戦 つて 居る なんて —— 何 といふ 狂人 きち が ひ の 態 ざま だら う 。 噫 あゝ 、 開化 し た 高尚 な 人 は 、 予 あら かじ め 金牌 を 胸 に 掛ける 積り で 、 教育 事業 なぞ に 従事 し て 居る 。 野蛮 な 、 下等 な 人種 の 悲し さ 、 猪子 先生 なぞ は 其様 な 成功 を 夢にも 見 られ ない 。 はじめ から もう 野末 の 露 と 消える 覚悟 だ 。 死 を 決して 人生 の 戦場 に 上 つて 居る の だ 。 その 慨然 と し た 心意気 は —— は ゝ ゝ ゝ ゝ 、 悲しい ぢ や ない か 、 勇 しい ぢ や ない か 。
touson まあ 、 そこ いら です 。
touson は ゝ ゝ ゝ ゝ 。 と 銀之助 は 笑 ひ 出し た 。 校長 先生 は 随分 | 几帳面 きち やう めん な 方 だ が 、 なんぼ なん でも 新 平民 と は 思は れ ない し 、 と 言 つて 、 教員 仲間 に 其様 な もの は 見当り さ うも 無い 。 左様 さ なあ —— いや に 気取 つ てる の は 勝野 君 だ —— まあ 、 其様 な 嫌疑 の か ゝ る の は 勝野 君 位 の もの だ 。
touson では 、 何 か 御 関係 が 御 有 なさる ん です か 。
touson 困る ぢ や ない か 、 君 、 折角 せつ かく 呈 げ よう と 思 つて 斯 うし て 持つ て 来 た もの を 。
touson と 校長 は 丁寧 に 挨拶 し た 。
touson と 毒 の 無い 調子 で 、 さも 心 しん から 出 た やう に 笑 つた 。 其時 丑松 の 持つ て 居る 本 が 目 に つい た ので 、 銀之助 は 洋 杖 を 小脇 に 挾ん で 、 見せろ といふ 言葉 と 一緒 に 右 の 手 を 差出し た 。
touson 丑松 の 眼 は 輝い て 来 た 。 今 は 我 知らず 落ちる 涙 を 止 と ゞ め かね た の で ある 。 其時 、 習字 やら 、 図画 やら 、 作文 の 帳面 やら を 生徒 の 手 に 渡し た 。 中 に は 、 朱 で 点 を 付け た の も あり 、 優 とか 佳 とか し た の も あつ た 。 または 、 全く 目 を 通さ ない の も あつ た 。 丑松 は 先 づ 其詑 その わび から 始め て 、 刪正 なほ し て 遣 や り たい は 遣り たい が 、 最早 もう 其 を 為 す る 暇 が 無い といふ こと を 話し 、 斯 うし て 一緒 に 稽古 を 為る の も 実は 今日 限り で ある といふ こと を 話し 、 自分 は 今 | 別離 わかれ を 告げる 為 に 是 処 こ ゝ に 立つ て 居る と いふ こと を 話し た 。
touson 次第に 高等 四 年 の 生徒 が 集 つて 来 た 。 其日 の 出発 を 聞 伝へ て 、 せめて 見送り し たい といふ 可憐 な 心根 から 、 いづれ も 丑松 を 慕 つて や つて 来 た の で ある 。 丑松 は 頬 の 紅い 少年 と 少年 と の 間 を あちこち と 歩い て 、 別離 わかれ の 言葉 を 交換 とり か は し たり 、 ある 時 は 一つ ところ に 佇立 たち と ゞ ま つて 、 是 これ から 将来 さき の こと を 話し て 聞せ たり 、 ある 時 は 又 た 霙 みぞ れ の 降る なか を 出 て 、 枯 々 かれ /″\ な 岸 の 柳 の 下 に 立つ て 、 船橋 を 渡 つて 来る 生徒 の 一 群 ひと むれ を 待ち 眺 な が め たり し た 。
touson わり や ( 汝 なん ぢ は ) 飛ん で も ねえ こと を 為 て 呉れ た なあ 。 何 も 俺 だ つて 、 好ん で 斯様 こん な 処 へ 貴様 を 引張 つて 来 た 訳 ぢ や ね え —— 是 といふ の も 自業自得 じ ご ふじ とく だ —— 左様 さ う 思 つて 絶 念 あき ら め ろ よ 。
touson 今日 まで 丑松 が 平和 な 月日 を 送 つて 来 た の は —— 主 に 少年 時代 から の 境遇 に ある 。 そも / \ は 小諸 の 向 町 むか ひ まち ( 穢 多 町 ) の 生れ 。 北佐久 の 高原 に 散布 する 新 平民 の 種族 の 中 でも 、 殊に 四 十 戸 ばかり の 一族 いち まき の お 頭 かしら と 言 は れる 家柄 で あつ た 。 獄卒 ら うも り と 捕吏 とり て と は 、 維新 前 まで 、 先祖 代々 の 職務 つとめ で あ つて 、 父 は その 監督 の 報酬 むくい として 、 租税 を 免ぜ られ た 上 、 別に 俸米 ふち を あて が はれ た 。 それ程 の 男 で ある から 、 貧苦 と 零落 と の 為 め 小県 郡 の 方 へ 家 を 移し た 時 に も 、 八 歳 の 丑松 を 小学校 へ やる こと は 忘れ なかつ た 。 丑松 が 根津 村 ね づむら の 学校 へ 通 ふ やう に な つて から は 、 もう 普通 なみ の 児童 こども で 、 誰 も この 可憐 な 新入生 を 穢 多 の 子 と 思ふ もの は なかつ た の で ある 。 最後 に 父 は 姫子 沢 ひめ こざ は の 谷間 た に あ ひ に 落着 い て 、 叔父 夫婦 も 一緒 に 移り住ん だ 。 異 か は つた 土地 で 知る もの は 無し 、 強 し ひ て 是 方 こちら から 言 ふ 必要 も なし 、 と い つ た やう な 訳 で 、 終 しまひ に は 慣れ て 、 少年 の 丑松 は 一番 早く 昔 を 忘れ た 。 官費 の 教育 を 受ける 為 に 長野 へ 出掛ける 頃 は 、 た ゞ 先祖 の 昔話 と しか 考へ て 居 なかつ た 位 で 。
touson 動揺 する 地上 の 影 は 幾度 か 丑松 を 驚かし た 。 日 の 光 は 秋風 に 送ら れ て 、 かれ /″\ な 桜 の 霜 葉 を うつくしく し て 見せる 。 蕭条 せ う で う と し た 草木 の 凋落 て う らく は 一層 先輩 の 薄命 を 冥 想 めい さ う さ せる 種 と なつ た 。
touson 主婦 かみさん に 導か れ て 、 二 人 は ずつ と 奥 の 座敷 へ 通 つ た 。 そこ に は 炬燵 こたつ が 有 つて 、 先客 一 人 、 五 十 あまり の 坊主 、 直に 慣 々 なれ / \ しく 声 を 掛け た ところ を 見る と 、 かねて 懇意 の 仲 で で も 有ら う 。 軈 や が て 盛ん な 笑声 が 起る 。 丑松 は 素知らぬ 顔 、 屋外 そ と の 方 へ 向い て 、 物 寂 もの さ み し い 霙 みぞ れ の 空 を 眺め て 居 た が 、 いつの間にか 後 の 方 へ 気 を 取ら れる 。 聞く と は 無し に つい 聞耳 を 立てる 。 座敷 の 方 で は 斯様 こん な 談話 はなし を し て 笑 ふ ので あつ た 。
touson さて —— 奈何 どう する 。
touson あ 、 ちよ と 、 気の毒 だ が ねえ 、 もう一度 役場 へ 行 つて 催促 し て 来 て 呉れ ない か 。 金銭 お かね を 受取 つ たら 直に 持つ て 来 て 呉れ —— 皆さん も 御 待 兼 だ 。
touson と 言 つて 、 丑松 は 制止 おし と ゞ め る やう に し た 。 其時 、 文平 も 丑松 の 方 を 振 返 つて 見 た 。 二 人 の 目 は 電光 い な づま の やう に 出 逢 で あ つた 。
touson あゝ 。 と 校長 も 深く 歎息 し た 。 猪子 の やう な 男 の 書い た もの が 若い もの に 読ま れる か と 思へ ば 恐し い 。 不健全 、 不健全 —— 今日 の 新しい 出版 物 は 皆 な 青年 の 身 を あやまる 原因 もと な ん です 。 その 為 に 畸形 かたは の 人間 が 出来 て 見 たり 、 狂 見 きち が ひみ た やう な 男 が 飛出し たり する 。 あゝ 、 あゝ 、 今 の 青年 の 思想 ばかり は 奈何 どう し て も 吾 儕 われ / \ に 解り ませ ん 。
touson といふ 銀之助 の 言葉 を 聞捨て ゝ 、 丑松 は そこ に 置い た 羽織 を 取上げ ながら 、 すご / \ と 退い た 。 やがて 斯 こ の 運動 場 うん どう ば から 裏庭 の 方 へ 廻 つて 、 誰 も 見 て 居 ない ところ へ 来る と 、 不 図 何 か 思出 し た やう に 立 留 つた 。 さあ 、 丑松 は 自分 で 自分 を 責め ず に 居 られ なかつ た の で ある 。 蓮 太郎 —— 大日向 —— それ から 仙 太 、 斯 う 聯想 し た 時 は 、 猜疑 うた が ひ と 恐怖 おそれ と で 戦慄 ふる へる やう に なつ た 。 噫 あゝ 、 意地 の 悪い 智慧 ちゑ は いつ でも 後 から 出 て 来る 。
touson 僕 に ?
touson 急い で 別れ て 行く 高柳 を 見送 つ て 、 反対 あべこべ な 方角 へ 一 町 ばかり も 歩い て 行 つた 頃 、 斯 こ の 噂 好 う は さ ず き な 町会 議員 は 一 人 の 青年 に 遭遇 で あ つた 。 秘密 に 、 と 思へ ば 思ふ 程 、 猶々 なほ / \ 其 を 私語 さ ゝ や か ず に は 居 られ なかつ た の で ある 。
touson 平和 な 姫子 沢 の 家 の 光景 あり さ ま と 、 世 の 変遷 うつり か はり も 知ら ず に 居る 叔父 夫婦 の 昔気質 むかし かたぎ と は 、 丑松 の 心 に 懐旧 の 情 を 催さ し た 。 裏庭 で 鳴き 交す 鶏 の 声 は 、 午後 の 乾燥 はし や い だ 空気 に 響き 渡 つて 、 一層 | 長閑 のどか な 思 を 与 へる 。 働好 な 、 壮健 たつ し や な 、 人 の 好い 、 しかも 子 の 無い 叔母 は 、 いつ まで も 児童 こども の やう に 丑松 を 考へ て 居る ので 、 其 | 児童 扱 こども あつ か ひ が 又 、 些少 すく な から ず 丑松 を 笑 は せ た 。 御覧 やれ 、 まあ 、 あの 手付 なぞ の 阿 爺 おや ぢ さん に 克 く 似 てる こと は 。 と 言 つて 笑 つた 時 は 、 思は ず 叔母 も 涙 が 出 た 。 叔父 も 一緒 に 成 つて 笑 つた 。 其時 叔母 が 汲ん で 呉れ た 渋茶 の 味 の 甘 かつ た こと は 。 款待 振 もてなし ぶり の 田舎 饅頭 ゐ な かま ん ぢ ゆう 、 その 黒砂糖 の 餡 あん の 食 ひ 慣れ た の も 、 可 懐 なつか し い 少年 時代 を 思出 さ せる 。 故郷 に 帰 つた といふ 心地 こ ゝ ろ もち は 、 何 より も 深く 斯 う いふ 場合 に 、 丑松 の 胸 を 衝 つ い て 湧 上 わき あ が る ので あつ た 。
touson いえ —— 私 は もう 死ん で 了 しま ひま し た も 同じ こと な んで 御座 ます —— 唯 た ゞ 、 人様 の 情 を 思ひ ます もの です から 、 其 を 力 に … … 斯 か うし て 生き て … …
touson 御苦労 | 招 よ び ( 手 伝 ひ に 来 て 呉れ た 近所 の 人々 を 招く 習慣 ) の あつ た 翌日 あくる ひ 、 丑松 は 会葬 者 へ の 礼 廻り に 出掛け た 。 叔父 も 。 姫子 沢 の 家 に は 叔母 一 人 留守居 。 御 茶漬 | 後 すぎ ( 昼飯 後 ) は 殊更 | 温暖 あた ゝ か く 、 日 の 光 が 裏庭 の 葱 畠 ねぎ ば たけ から 南瓜 か ぼ ちや を 乾し 並べ た 縁側 へ 射し込ん で 、 いかにも 長閑 のどか な 思 を さ せる 。 追 ふも の が 無けれ ば 鶏 も 遠慮なく 、 垣根 の 傍 に 花 を 啄 つ むもあり 、 鳴く も あり 、 座敷 の 畳 に 上 つて 遊ぶ の も あつ た 。 丁度 叔母 が 表 に 出 て 、 流 の ところ に 腰 を 曲 こ ゞ め 乍 ら 、 鍋 なべ を 洗 つて 居る と 、 そこ へ 立つ て 丁寧 に 物 を 尋ねる 一 人 の 紳士 が ある 。 瀬川 さん の 御 宅 は と 聞か れ て 、 叔母 は 不思議 さうな 顔 付 。 つ ひぞ 見掛け ぬ 人 と 思ひ 乍 ら 、 冠 つて 居る 手拭 を 脱 と つて 挨拶 し て 見 た 。
touson 斯 う いふ 弁護士 の 言葉 は 、 枯れ 萎れ た 丑松 の 心 を 励 はげま し て 、 様子 に よ つて は 頼ん で 見よ う 、 働い て 見よ う と いふ 気 を 起さ せ た の で ある 。
touson 道理 で —— 君 は 暫時 しばらく 見え ない と 思 つ た 。 と 言 ふ は 世 慣 よ な れ た 坊主 の 声 で 、 私 わし は 又 、 選挙 の 方 が 忙しく て 、 其 で 地方 廻り でも 為 し て 居る の か と 思 つ た 。 へえ 、 左様 さ う です かい 、 そんな 御 目出度 おめでたい こと ゝ は 少 許 すこし も 知ら なかつ た ねえ 。
touson はあ 。
touson どうも 不思議 だ と は 思ひ まし た よ 。 と 丑松 は 笑 つて 、 妙 に 是 方 こちら を 避 よ ける といふ やう な 風 でし た から 。
touson 君 、 真実 ほん た う かい —— 戯語 じ よう だ ん ぢ や 無い の かい —— また 欺 かつ ぐん だら う 。
touson 瀬川 さん 、 御 勉強 です か 。
touson 斯 う 言 つて 、 お 志保 は 省吾 を 抱直 し た 。 殆 ん ど 省吾 は 何 に も 知ら ない らしい 。 其時 丑松 が 顔 を 差出し た ので 、 お 志保 も 是 方 こちら を 振 向い た 。 お 志保 は 文平 を 見 て 、 奥様 を 見 て 、 それから 丑松 を 見 て 、 紅 あか く なつ た 。
touson 烈しい 追憶 おも ひで は 、 復 た / \ 丑松 の 胸中 を 往来 し 始め た 。 忘れる な —— あゝ 、 その 熱い 臨終 の 呼吸 は 、 どんなに 深い 響 と なつ て 、 生 残る 丑松 の 骨 の 膸 ず ゐ まで も 貫徹 しみ と ほ る だら う 。 其 を 考へる 度 に 、 亡くな つ た 父 が 丑松 の 胸中 に 復活 いきか へ る の で ある 。 急 に 其時 、 心 の 底 の 方 で 声 が し て 、 丑松 を 呼び 警 い まし め る やう に 聞え た 。 丑松 、 貴様 は 親 を 捨てる 気 か 。 と 其声 は 自分 を 責める やう に 聞え た 。
touson いくら 有 やす 。 と 音 作 は 覗 の ぞ き 込ん で 、 むゝ 、 出放題 で はう で え ある は ——
touson 警察 署 へ 行 つた 弁護士 も 帰 つて 来 て 、 蓮 太郎 の こと を 丑松 に 話し た 。 上田 の 停車場 ステーション で 別れ て から 以来 この かた 、 小諸 こもろ 、 岩村田 、 志賀 、 野沢 、 臼田 、 其他 到る ところ に 蓮 太郎 が 精 く は し い 社会 研究 を 発表 し た こと 、 それから 長野 へ 行き 斯 の 飯山 へ 来る 迄 の 元気 の 熾 盛 さかん で あつ た こと なぞ を 話し た 。 実に 我輩 も 意外 だ つ た ね 。 と 弁護士 は 思出 し た やう に 、 一緒 に 斯処 こ ゝ の 家 うち を 出 て 法 福 寺 へ 行く 迄 も 、 彼 様 あん な 烈しい こと を 行 や ら う と は 夢にも 思は なかつ た 。 毎時 いつも 演説 の 前 に は 内容 なか み の 話 が 出 て 、 斯様 かう 言 ふ 積り だ とか 、 彼 様 あゝ 話す 積り だ とか 、 克 よ く 飯 を やり 乍 ら 其 を 我輩 に 聞か せ た もの さ 。 ところが 、 君 、 今夜 に 限 つて は 其様 そん な 話 が 出 なかつ た から ねえ 。 と 言 つて 、 嘆息 し て 、 あゝ 、 不親切 な 男 だ と 、 君 始め —— まあ 奈何 どん な 人 で も 、 我輩 の こと を 左様 思ふ だら う 。 思は れ て も 仕方 無い 。 全く 我輩 が 不親切 だ つ た 。 猪子 君 が 何と 言 はう と 、 細君 と 一緒 に 東京 へ 返し さ へ すれ ば 斯様 こん な こと は 無 かつ た 。 御 承知 の 通り 、 猪子 君 も 彼 様 あゝ いふ 弱い 身体 だ から 、 始め 一緒 に 信州 を 歩く と 言 出し た 時 に 、 何 ど の 位 くら ゐ 我輩 が 止め た か 知れ ない 。 其時 猪子 君 の 言 ふ に は 、 僕 は 僕 だけ の 量 見 が あつ て 行く の だ から 、 決して 止め て 呉れ 給 ふ な 。 君 は 僕 を 使役 つか ふと 見 て も よし 、 僕 は また 君 から 助け られる と 見 られ て も 可 い ゝ —— 兎 と に 角 かく 、 君 は 君 で 働き 、 僕 は 僕 で 働く の だ 。 斯 う いふ もの だ から 、 其程 熱心 に 成 つて 居る もの を 強 ひ て 廃 よ し 給 へ と も 言 は れん し 、 折角 の 厚意 を 無 に し たく ない と 思 つて 、 それ で 一緒 に 歩い た やう な 訳 さ 。 今に な つて 見る と 、 噫 あゝ 、 あの 細君 に 合せる 顔 が 無い 。 奥様 おく さん 、 其様 に 御 心配 なく 、 猪子 君 は 確か に 御 預り し まし た から なんて —— まあ 我輩 は 奈何 どう し て 御 詑 おわび を し て 可 い ゝ か 解らん 。
touson ナニ 、 君 、 僅か に 打撃 を 加 へる 迄 まで の こと さ 。 は ゝ ゝ ゝ ゝ 。 なにしろ 先方 さき に は 六 左衛門 といふ 金主 が 附い た の だ から 、 いづれ 買収 も 為る だら う し 、 壮士 的 な 運動 も 遣 や る だら う 。 そこ へ 行く と 、 是 方 こ つ ち は 草鞋 わら ぢ 一足 、 舌 一 枚 —— おもしろい 、 おもしろい 、 敵 は た ゞ 金 の 力 より 外 に 頼り に 為る もの が 無い の だ から おもしろい 。 は ゝ ゝ ゝ ゝ 。 は ゝ ゝ ゝ ゝ 。
touson 何 も 左様 君 の やう に 蔵 つ ゝ んで 居る 必要 は 有る まい と 思ふ ん だ 。 言 は ない から 、 其 で 君 は 余計 に 苦しい ん だ 。 まあ 、 僕 も 、 一時 は 研究 々 々 で 、 あまり 解剖 的 に ばかり 物事 を 見 過ぎ て 居 た が 、 此頃 に 成 つて 大 に 悟 つ た こと が 有る 。 それ から ずつ と 君 の 心情 こ ゝ ろ もち も 解る やう に 成 つた 。 何故 君 が あの 蓮華 寺 へ 引越し た か 、 何故 なぜ 君 が 其様 に 独り で 苦 んで 居る か —— 僕 は もう 何もかも 察し て 居る 。
touson 今 ? 何 に も 聞え やし なかつ た ぢ や ない か 。
touson はあ 、 居 な さり やす 。
touson 瀬川 君 ? と 郡 視学 も 眉 を ひそめる 。
touson こ ゝ は 学校 で は 無い か 。 奈何 どう し て 斯様 こん な ところ へ お 志保 が 尋ね て 来 たら う 。 と 丑松 は 不思議 に 考へ ない でも なかつ た 。 しかし 其 | 疑惑 うた が ひ は 直に 釈 と けた 。 お 志保 は 何 か 言 ひ たい こと が 有 つて 、 わざ / \ 自分 の ところ へ 逢 ひ に 来 た の だ 、 と 斯 う 気 が 着い た 。 あの 夢見る やう な 、 柔 嫩 や はら か な 眼 —— 其 を 眺める と 、 お 志保 が 言 は う と 思ふ こと は あり / \ と 読ま れる 。 何故 、 父 や 弟 に ばかり 親切 に し て 、 自分 に は 左様 さ う 疎 々 よそ / \ しい ので あらう 。 何故 、 同じ 屋根 の 下 に 住む 程 の 心 や すだて は 有 乍 ら 、 優しい 言葉 の 一つ も 懸け て 呉れ ない ので あらう 。 何故 、 其 | 口唇 くちびる は 言 ひ たい こと も 言 は ない で 、 堅く 閉 と ぢ 塞 ふさ が つて 、 恐怖 おそれ と 苦痛 くるしみ と で 慄 へ て 居る ので あらう 。
touson い ゝ え 。 と 丑松 は すこし 言 淀 いひ よど んで 、 別 に 、 懇意 でも 有 ませ ん 。
touson と また 繰返し て 、 丑松 は 樹 と 樹 の 間 を あちこち と 歩い て 見 た 。
touson しかし 、 最早 もう 時間 は 来 まし た 。 生徒 の 集る 、 集ら ない は 兎 と に 角 かく 、 規則 といふ もの が 第 一 です 。 何卒 どうぞ 小使 に 左様 言 つて 、 鈴 を 鳴らさ せ て 下さい 。
touson 市村 さん の 許 ところ へ ? 先 づ 好 かつ た 。 と 銀之助 は 深い 溜息 を 吐い た 。 実は 僕 も 非常 に 心配 し まし て ね 、 蓮華寺 へ 行 つて 聞い て 見 まし た 。 御寺 で 言 ふ に は 、 未だ 瀬川 君 は 学校 から 帰ら ん と いふ 。 それ から 市村 さん の 宿 へ 行 つて 見る と 、 彼処 あすこ に も 居 ませ ん 。 ひよ つ と する と 、 こり や 貴方 あなた の 許 ところ かも 知れ ない 、 斯 う 思 つて や つて 来 た ん です 。 と 言 つて 、 考へ て 、 むゝ 、 左様 さ う です か 、 貴方 の 許 へ 参り まし た か ——
touson お ゝ 、 土屋 君 か 。 と 校長 は 身 を 起し て 、 そこ に 在る 椅子 を 銀之助 の 方 へ 押薦 おし すゝ め た 。 他 ほか の 事 で 君 を 呼ん だ の で は 無い が 、 実は 近頃 世間 に 妙 な 風評 が 立つ て —— 定め し 其 は もう 君 も 御 承知 の こと だら う けれど —— 彼 様 あゝ し て 町 の 人 が 左 と や 右 かく 言 ふも の を 、 黙 つて 見 て も 居ら れ ない し 、 第 一 | 斯 か う いふ こと が 余り 世間 へ 伝播 ひろ が る と 、 終 しまひ に は 奈何 どん な 結果 を 来す かも 知れ ない 。 其 に 就い て 、 茲 こ ゝ に 居ら れる 郡 視学 さん も 非常 に 御 心配 なす つて 、 態 々 わざ / \ 斯 こ の 雪 に 尋ね て 来 て 下す つ た ん です 。 兎 と に 角 かく 、 君 は 瀬川 君 と 師範 校 時代 から 御 一緒 で は あり 、 日頃 親しく 往来 ゆき ゝ も し て 居ら れる やう だ から 、 君 に 聞い たら 是 事 この こと は 一番 好く 解る だら う 、 斯 う 思ひ まし て ね 。
touson むゝ 、 根津 に は 君 の 叔父さん が ある と 言 つた ツ け ねえ 。 左様 さ う いふ 叔父さん が 有れ ば 、 万事 見 て は 呉れ たら う 。 しかし 気の毒 な こと を し た 。 なにしろ 、 まあ 早速 帰る 仕度 を し たま へ 。 学校 の 方 は 、 君 、 奈何 どう に でも 都合 する から 。
touson 奈何 どう だい 、 君 、 今 の 談話 はなし は —— 瀬川 君 は 最早 もう 悉皆 す つかり 自分 で 自分 の 秘密 を 自白 し た ぢ や ない か 。
touson と 敬之 進 は 寂し さ うに 笑 つた 。 やがて 盃 の 酒 を 飲 乾し て 、 一寸 舌打ち し て 、 それ を 丑松 へ 差し 乍 ら 、
touson 斯 う 引受け て 貰 ひ 、 それから 例 の 懴悔 録 は いづれ 東京 へ 着い た 上 、 新本 を 求め て 、 お 志保 の ところ へ 送り届ける こと に しよ う 、 と 約束 し て 、 軈 や が て 丑松 は 未亡人 と 一緒 に 見送り の 人々 へ 別離 わかれ を 告げ た 。 弁護士 、 大日向 、 音 作 、 銀之助 、 其他 生徒 の 群 は いづれ も 三 台 の 橇 そり の 周囲 ま はり に 集 つ た 。 お 志保 は 蒼 あ を ざめて 、 省吾 の 肩 に 取 縋 と りす が り 乍 ら 見送 つ た 。
touson まあ 、 妙 な こと を 仰 お つ し や る ん です よ 。 と お 志保 は 其 を 言 ひ かね て 居る 。
touson 斯 う いふ 光景 あり さ ま は 今 丑松 の 眼前 め の ま へ に 展 ひ ら けた 。 平素 ふだん は 其程 注意 を 引か ない やう な 物 まで 一々 の 印象 が 強く 審 く は しく 眼 に 映 つて 見え たり 、 ある とき は 又 、 物 の 輪郭 かたち すら 朦朧 もうろう として 何もかも 同じ やう に ぐら / \ 動い て 見え たり する 。 自分 は 是 これ から 将来 さき 奈何 どう しよ う —— 何処 へ 行 つて 、 何 を 為 よう —— 一体 自分 は 何 の 為 に 是 世 この よ の 中 へ 生れ て 来 た ん だら う 。 思ひ 乱れる ばかり で 、 何 の 結末 まとまり も つか なかつ た 。 長い こと 丑松 は 千曲川 の 水 を 眺め 佇立 た ゝ ず ん で 居 た 。
touson 俺 おら 知ん ねえ よ 。
touson 其時 、 草色 の 真 綿帽子 を 冠 り 、 糸織 の 綿 入 羽織 を 着 た 、 五 十 | 余 あまり の 男 が 入口 の ところ に 顕 あら は れ た 。